地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

奥州街道:八丁目天満宮情報から⑥

 明治政府の神仏分離令以前の本来的な天神信仰である神仏混淆時代の影が残る八丁目天満宮だが、受けた命令通り本地仏を廃し、鰐口を外して鈴が下げられたようだ。
 直接的な解説はみないが、いろいろな情報を組み合わせてみると、「八丁目天満宮」と改称した天神様に神仏分離令以降かかわるのは多宝院のようだ。
 元々この八丁目天神にもかかわっていて、明治政府の神仏分離令を受けて、僧から神主に軸足を切り替えたということなのだろうか。

 松川町の寺小屋は、小学校が解説された後も、明治25年頃まで存続していて自然消滅したとのことだ。その松川町の寺小屋情報から、明治以降八丁目天満宮に多宝院がかかわったと思われる情報が含まれている。
 八丁目村の寺小屋の一つは、八丁目村名主検断渡辺権左衛門氏で、弟子は8名とのことだ。この方は、謡曲が巧みで、年長者には「素謡」も教えたとのことだ。
 そして、もう一つが多宝院渡辺早人氏で、弟子が20人とのことだが、その紹介に「多宝院(神主)」とある。この「多宝院(神主)」の神主は八丁目天神であろうことが推察される。

 更に、維新館情報の八丁目村メンバーを確認すると、名主が野地長十郎(戸長)となっていて、同じ姓の野地源十郎と共に、渡辺伊佐美氏の名が挙がっている。
 その渡辺伊佐美氏は、その後菅原神社神官、松川小教師となったことが記される。
 明治10年に松川小の職員になっている事も確認できた。

 八丁目天神は、多宝院渡辺早人氏から渡辺伊佐美氏に引き継がれるようだが、この渡辺伊佐美氏が、八丁目村名主検断渡辺権左衛門氏かかわりなのか、渡辺早人氏かかわりなのかは不明だ。
 いろいろな事が想像される。八丁目村名主検断と多宝院はかかわっていたという事も考えられなくもない。
 どちらにしても、八丁目天神を視点にすれば、多宝院かかわりの神官からの継続であろうことは確かな事だ。
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by shingen1948 | 2017-07-24 09:36 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)