奥州街道:八丁目天満宮情報から③
2017年 07月 21日
その方は「忍幢律師」とおっしゃる方で、「信達二郡村誌」によれば、「師は本村の産にして大和国奏楽寺に住し 此神を尊信する他に異なり」という方のようだ。
社前に飛梅と称する古木は、「(この忍幢律師が、)古府菅祠の飛梅を乞い分ちて安永年間(1772~1781)植える所なり」と紹介する。
「大和国奏楽寺」は、現「奈良県磯城郡田原本町 奏楽寺」だと思われる。
その「奏楽寺略縁起」によれば、大化3年(647)に秦河勝が建立し、聖徳太子から下賜された観音像を本尊にしたと伝わるという古寺のようだ。
大同3年(807)には空海が『三教指帰』の一書を当寺で執筆し、阿字池を築造したとの言い伝えが残っているという。この当時は、天台・真言宗の僧坊が棟を並べていたとされ、顕密二教の霊場だったとされる。
発掘調査でその創建年代は確認できていないものの、8世紀後半頃の柱穴は見つかっていて、少なくともこの時期以降に寺院が存在したことは確実だという古寺なのだという。
この寺の江戸時代の特記事項を確認すると、次の二項が確認できる。
1759 僧 恵海 、秦楽寺 の堂字 を再建
1806 僧 憲実 、方広寺 大仏の再 興を発願
忍幢律師のこの寺での確認は今のところできていないが、古府菅祠の飛梅を乞い分ちて植えられたのは、この2項の間の安永年間(1772~1781)という時期にあたるようだ。
地域の人々にとっては、この八丁目天満宮は、地元出身の大和国奏楽寺高僧忍幢律師も信仰なされていた天神様という信仰の支えがベースにあるということかなと想像する。