地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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奥州街道:境川から八丁目村へ④

 ここから先、右手からの道と合流した地点で、直ぐに左手すると、左側に「奥洲八丁目天満宮」が見えてくる。
 そこまで、街道は何の変哲もない田園地帯を通るのだが、自分としてはその左手の風景が懐かしい。
 ここは、先に整理した「松川鉱山」の散策で、搗鉱場の地を推定するために歩き回った風景なのだ。

 大正の始め、橋本組によって再開された松川鉱山では、良質鉱の一部を青金の段階まで自家製錬して売却したとのことだった。
 この精錬所を地元では、搗鉱場と呼ぶのだそうだが、これが古天神地内に設備されていたとのことだった。
 その地を推定するのに、注目したのが「水力を利用して石臼の鉱石をスタンプで搗き砕き、水銀アマルガムによる方法を用いていた」とあったことだった。
 要は水車を利用して鉱石を砕き、それを水銀アマルガム法で精製していたということだ。

 当時の水路が推定できれば、その搗鉱場の地が推定できるのではないかということで、小字名と照らし合わせて当時の水路を推定した。
a0087378_7124596.png 先の整理では推定した水路に視点を当てたところだが、今回の散策とかかわるのは小字名の方だ。
 前回整理した「信夫隠」を過ぎた辺りの地名が「古天神」である。その更に左側に「宿地」がみえる。そこを過ぎた地点が「八丁目」だ。

 地元では中世に「宿地千軒」という栄えた町が、この「宿地」にあったという言い伝えがあるらしいのだ。

 15~16世紀初め頃、奥大道の宿の町として「宿地」を中心に、その東は「古天神」辺りまで、西は「薩摩」の西側の西光寺の旧地とされる「本西」辺りまで、そして北側は「梅崎」の先の「上木戸内」「下木戸内」辺りまで栄えていたではないかとの推定のようだ。
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by shingen1948 | 2017-07-09 09:11 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)