奥州街道:境川から八丁目村へ③
2017年 07月 08日
実際の風景と照らし合わせると、この位置だと思う。
現在は、「信夫隠の碑」とその案内板も「橋供養塔」と共に、「立正院」の入り口に移されている。
信夫隠の碑
碑文
隠母日夜留 お(隠)もひやる
居巳露之意苦鳴 こころ(之)のおくを
目浪作偲止 もらさ(作)し(偲)と
旨迺父可絇次破 し(旨)のふかくし(次)は
衣手何當物跡香 そで(手)かたもとか
和歌の大意
思ひ遣る 心の奥をもらさじと
忍ぶ隠し(信夫隠)は袖か袂か
(思い慕う心をひとり胸の中にしまい隠し置くことの切なさを地名信夫隠にかけて詠いあげたものです)
建立時代
碑文の落款に見ることができる
慶応二年丙寅に建立
松川・町づくり委員会21
松川町観光協会
境川から道沿いにこの辺りの地名が信夫隠(しのぶかくし)であるのだが、その由来ということなのか、その地名を読み込んで詠んだという事なのかは分からない。
いづれにしても気になるのは「信夫」の部分だ。歌枕の信夫山との関りなのか、信夫郡とのかかわりなのかが分からない。
その詠み人も分からない。地元の方なら、そういう教養人がいたという誇りとかかわるのだろうし、他所人ならその地名のついた地に対する誇りとなるのだろうと思う。
その辺りの曖昧さも残る。
どうでもいいこと二つ。
その一つは案内板の事だが、「街道Web」の写真と見比べると、案内板設置者に「松川・町づくり委員会21」が加わっている。新たに作り替えたものだろうと思われる。
もう一つは、「街道Web」の「信夫隠の碑」とその案内板の写真の右手に写りこんでいた石碑。ちょっと気になって確認したら、昭和37年に建立された「桐生幸蔵翁の碑」であることまでは分かった。
氏は明治31年に信夫郡松川町に生まれた人で、田植えの天才で農業振興に功績があった人物らしい。
その碑の現況までは分からなかった。
橋供養碑も信夫隠の歌碑も移設されたのですね。
石碑自体も見違えるように綺麗になっており、大切にされているようで何よりです。
沿線の風景も随分変わりました。震災の影響でしょうか、空地が増えているように見えます。
今までは自転車と徒歩の組み合わせにこだわっていましたが、体力が落ちてきたので、今回辺りからは、近くまで自家用車で来て、そこから歩いての散策という方法にしています。
風景の変化の一つは震災のようですが、案内板の設置など街づくりの動きもあるようにも感じました。