地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

奥州街道:境川から八丁目村へ②

a0087378_8394325.jpg 街道を散策する時にいつもお世話になっている「街道Web」によると、橋を渡って次の道筋と交わる左側に「橋供養塔」が建っていたようだ。
 実際の風景と照らし合わせると、この位置に道路に面して建っていたのだと思う。


 a0087378_8404418.jpg 現在は、その「橋供養塔」は、この左手前の「立正院」の入り口に移されている。
 その傍に建つ松川観光協会の案内板の解説によると、境川に架かる橋が石橋になるのは、この松川地域が二本松藩領になる天保4年(1833)以前の出来事らしい。



  橋供養塔

 寛保3年(1743)から天保3年(1832)まで、この周辺は境川を境に松川地域は幕領、安達地域は二本松藩領であった。その為、戦略上の理由で丈夫な橋を架けることが許されず、住民は木橋で行き来していた。しかし、川の増水で橋が流されたり、板が抜け落ちたりと住民の苦労が絶えなかった。
 幕府、二本松藩のどちらが許可したかなどの経緯は不明だが、文化年間(1804~1818)に丈夫な橋を架けることを許され、八丁目、鼓ケ岡、天明根、吉倉(安達)の各村で人夫などを出し合い石橋が造られた。住民はこれを大層喜び、橋供養塔を建立したと伝えられている。
 橋供養とは明治期まで庶民の習わしで、橋を新たに架け替えた時に、通行人の安全や橋の長久を祈り建てられた。自然石をそのまま使ったものや角柱型などがある。
 この橋供養は高さ約140㎝、幅約40㎝の角柱型で、現存する碑の中でもかなり大きく、歴史的に貴重な文化財である。

  平成19年3月
 松川町観光協会

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by shingen1948 | 2017-07-07 09:37 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)