地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30

奥州街道:境川から八丁目村へ

 松川鉱山にかかわっていろいろ歩き回ったところは、八丁目宿南端部分と接したり重なったりしている。その時に、先に「八丁目宿」を散策したことがあったのだが、整理したのはその中心地でしかなかったことに気が付いた。
 それで、その南端にあたる付近を散策してみようかなと思った。

 その定番、奥州街道の安達郡と信夫郡の境を流れる境川にかかる橋からスタートする。
a0087378_6564547.jpg ここを渡ると安達郡(現二本松市)から福島市に入る。
 八丁目宿を念頭においてここを整理するには、ここが二本松藩と福島藩との境なので、宿の南端に口留番所があったとしたいところだ。
 しかし、そう表現できない理由の一つに、福島藩が板倉藩の時代は、この辺りまで支配することができていなかったということがある。信夫郡側のこの辺りは川俣代官所支配の幕領だったようだ。

 もう一つあって、幕末にはここも二本松藩領になっていたということだ。
 天保4年(1833)に、八丁目村は、現松川町の鼓岡村・天明根村や現松川町水原の上水原村下組や下水原村と共に二本松藩に組み入れられているのだ。
 二本松藩では、この信夫郡の二本松藩領を八丁目組として編成して、代官所を鼓岡村に置いて支配したとのことだ。

 そして、この組み換えには、10年前の文政5年(1822)12月の二本松藩への駆け込み訴えがかかわっているともいわれているらしい。
 当時幕領だった八丁目村など8ケ村が食料の借り入れや年貢収めの延期を要求して二本松藩に駆け込み訴えをしているのだが、この時に幕領から二本松藩領になることを望んでいたともいわれているのだそうだ。
[PR]
by shingen1948 | 2017-07-06 06:58 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)