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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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撮り溜めた写真から⑬~医王寺

 先に確認したように、今年になって散歩で医王寺へ出かけたのは2017/4/27のようだ。
 地元の散策資料では「医王寺」についての確認をしているが、もうちょっと引いてwebで確認してみる。
撮り溜めた写真から⑬~医王寺_a0087378_948459.jpg ウィキペディアでは「真言宗の寺院で、山号は瑠璃光山。中性初期に信夫郡を支配した佐藤氏の菩提寺」と紹介され、地元の紹介と変わりない。その沿革についても、ほぼ地元の資料で確認できることだが、その中興にかかわる紹介の一部は、地元の資料ではふれられていない。
 それが、(寺の縁起によれば)「寛永期に福島真浄院の快翁が『重興す』と記されている」という部分だ。「増補 大日本地名辞書 奥羽【富山房(1988年)】」を参考文献に挙げている。

 まだ確認していなかったが、別資料で上杉時代医王寺は信達惣奉行 平林蔵人によって 寺領30石が寄与されているという情報はみていた。この情報と重なるような気がしている。
 というのは、快翁は福島真浄院を慶長5年(1600)に中興開基するのだが、この方は、米沢藩の平林正恒氏の弟ということのようなのだ。
 この平林正恒氏が、信達惣奉行 平林蔵人氏だ。

 平林正恒氏を確認すると、次のような経歴のようだ。
 元々は武田氏家臣で、信濃国の平林城城主を勤めていたが、天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、上杉景勝に250石で仕えるようになる。
 その後、直江兼続に算勘を認められて1000石を給される。慶長3年(1598)の上杉景勝の会津移封によって白河小峰城(5360石)に移り、慶長6年(1601)には福島城二の丸に入り、伊達・信夫両郡の奉行となる。
 慶長13年(1608)には春日元忠の後を継いで郡代と奉行を兼ねた執政となり、直江の下で藩政諸般を統括した。

 上杉氏が会津から米沢に移封後も、信夫郡と伊達郡が上杉氏の所領の時代は続いている。それは、信夫郡と伊達郡が江戸幕府に召し上げられて一時的な天領となる上杉綱憲家督相続時(1664)まで続く。
 福島真浄院の快翁が重興したとする寛永(1624~1645)時代は、信夫郡も伊達郡も上杉氏所領の時代だ。
 まだ確認はできていないが、矛盾はなさそうではある。
by shingen1948 | 2017-06-21 09:50 | ★ 季節便り | Comments(0)