地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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山中毅さんの訃報に接して③

 この講演会の記憶は、自分の学校に当時注目される世界に通用する方がおいでになったということだけでも、充分思い出深い出来事だ。
 
 もっと印象深いのが、その講演会設定にかかわることだ。
 この講演会は、この学校に赴任した新採用教員を山中選手が訪ねて来たことから設定されたというのが、自分の記憶だ。
 その新採用教員というのを、仮にN先生としておく。
 自分の記憶の中では、そのN先生が山中選手の友人で、そのN先生が赴任した職場に山中選手が訪ねて来たということになっている。

 山中選手の経歴を確認する。
 山中選手は、昭和31年(1956)のメルボルン五輪に高校3年生で出場している。という事は、昭和35年(1960)のローマ五輪は、大学4年生という事になる。
 そして、会津若松の国体が翌年の昭和36年(1961)だから、大学卒業の翌年だ。
 山中選手の経歴には「輪島高から、早大、大洋漁業と進む」という表現も見える。ということは、この時期、早稲田大学から大洋漁業へ進んだあたりということが推定される。

 この時に、赴任したてのN先生の職場に訪ねて来たという事なので、N先生とは早稲田大学の同級生だったということになるようだ。このN先生は、後に会津高校のボート部を指導するようになることから、スポーツにかかわる知り合いだったのかなと想像する。

 自分の記憶に、矛盾はなさそうだ。
 それにしても、大人になて考えれば、学校としてもかなり柔軟性のある対応だったのだと思う。
 有名人が訪ねて来た事を理由に、急遽、全校生を招集した集会が設定されたというのは考えにくい。その段取りや手続きがあったのだろうと思うが、これがスムーズにクリアーされたのだろうと想像する。
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by shingen1948 | 2017-03-11 09:55 | ☆ その他の話題 | Comments(0)