地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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森鴎外と福島36

 史伝「渋江抽斎(森鴎外)」を保氏の動向と関連付けた興味で読むのは、文学作品の読み方としては邪道であろう。しかし、この史伝がノンフィクションである故に、読者にその読み方の自由度が許容されるのではないかと勝手に思っている。これが、この作品を読み進めたいと思う原動力ともなる。

 ただ、鴎外氏自身も抽斎伝から離れて保伝になってしまわないように配慮していることが伺える。
 特に抽斎没後について、その時代を「斎歿後の第〇〇年の明治〇年」と表現するのも、抽斎伝から離れることのないようにする工夫なのかもしれないと思う。
 また、情報提供者としての保氏はその名の通り記されるが、保氏の動向は「その93」で、成善の名を保つに改名するまでは、史伝の中では、保氏は成善の名で描かれているのも、その配慮の一つなのかもしれないとも思う。

 さて、鴎外氏に提供された抽斎氏情報だが、抽斎氏は保氏が2歳の時に亡くなっている。従って、抽斎氏についての直接的な記憶はなく、母である五百さんから聞いた話のようだ。幸い、この方は保氏が28歳になる明治17年までご生存されていたので、抽斎氏の日々の話が聞けたという事のようだ。

 その五百さんが史伝「渋江抽斎」に登場するのは「その30」からで、抽斎氏と夫婦になるのが「その34」だ。
 保氏が史伝「渋江抽斎」に登場するのは「その51」だ。以下のように紹介される。

 安政四年には抽斎の七男成善が七月二十六日を以て生れた。小字(おさなな)は三吉(さんきち)、通称は道陸(どうりく)である。即ち今の保さんで、父は53歳、母は42歳の時の子である。
 ただ、「その93」で、成善の名を保つに改名するまでは、情報提供者としては保氏とされるが、史伝の中では、成善の名で描かれていることについては先に記した。

 その改名だが、抽斎歿後の第13年の明治4年だ。「その91」で、次のような事が起きる。
 成善氏は、藩学の職を辞して、3月21日に、母五百と水杯を酌み交して別れ、駕籠に乗って家を出た。水杯を酌んだのは、当時の状況より推して、再会の期しがたきを思ったからである。成善は35歳、五百は56歳になっていた。

 そして、「その93」で、その改名を次のように紹介する。
 この年6月7日に成善は名を保と改めた。これは母を懐(おも)うが故に改めたので、母は五百の字面の雅ならざるがために、常に伊保と署していたのだそうである。矢島優善の名を優と改めたのもこの年である。山田専六の名を脩(おさむ)と改めたのは、別に記載の徴すべきものはないが、やや後の事であったらしい。

 この作品がノンフィクションであるために、鴎外氏にはもう一つ配慮しなければならない事があったようだ。それは、鴎外氏と同時代を生きる保氏のプライバシーへの配慮だ。
 保氏自身も、鴎外のために書き下ろした資料が、抽斎伝から離れて保伝になってしまわないように配慮し、後半生についての記録をごく簡単ものにしているという。従って明治23年(1890)年以降の活動情報は、きわめて少ないという。

 なお、「森鴎外と福島32」でふれた松本清張氏の史伝は鴎外が抽斎の子保に依頼して書いてもらった資料・覚書通りで鴎外自身の創作は微塵も無いとの指摘だが、鴎外氏は、その事については作品の中できちんと断っている。
 保氏と出会う「その9」は、以下のようにしめられている。
 わたくしは保さんに、父の事に関する記憶を箇条書きにしてもらうことを頼んだ。保さんは快諾して、同時にこれまで「独立評論」に追憶談を載せているから、それを見せようと約した。
 保さんと会見してから間もなく、わたくしは大礼に参列するために京都へ立った。勤勉家の保さんは、まだわたくしが京都にいるうちに、書きものの出来たことを報じた。わたくしは京都から帰って、直ぐに保さんを牛込に訪ねて、書きものを受け取り、また『独立評論』をも借りた。ここにわたくしの説く所は主として保さんから獲た材料に拠るのである。

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by shingen1948 | 2017-03-04 09:01 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)