森鴎外と福島35
2017年 02月 25日
「渋江抽斎(森鴎外)」をその視点で眺め直す。
渋江保氏と出会うきっかけになるのが、東京在住で渋江氏と交わった飯田巽(たつみ)氏と郷土史家として渋江氏の事績を知っている戸崎覚氏だが、この方々が「その4」で紹介される。
「その5」で「道純(=抽斎と号)の娘さんが本所松井町の杵屋勝久であり、その杵屋には渋江終吉という甥がいて下渋谷に住んでいることが分かる。
「その6」で鴎外氏は戸崎覚氏を訪ね、ここで抽斎氏嗣子渋江保氏を知る。
「その7」で、鴎外氏が得ていた渋江保氏にかかわる情報が紹介される。ただ、この時点では保氏の所在は不明だった。
また、飯田巽(たつみ)氏からの手紙で、渋江氏の祖父の墓の所在、現存している親戚交互の関係、家督相続をした叔父の住所等の情報を得る。
その情報の中で、保氏の住所が今の牛込船河原町であることを知る。
「その8」で渋江氏の墓探しがあって、そして「その9」で保氏と対面する。
そこで氏の概要について紹介されるのだが、ここでは「渋江抽斎没後の渋江家と帝国図書館(藤元直樹)」から保氏のプロフィール情報をお借りする。
安政4年(1857)江戸生まれ、医家であった抽斎の遺したプログラムに従い学問を修め、その幼年時代を過ごしていく。
明治元年(1868)、維新の騒乱の中で本国である弘前へと移り、若くして藩の助教となった保氏は、医者ではなく、漢学者の道を歩みはじめる。
時節柄、藩の支給する禄は減っていくばかりであったため、英学によって身を立てることを決意し、明治3年(1871)上京、尺振八の共立学舎に入門する。わずか1年で編訳書を出版する早熟ぶりを見せる。
明治4年(1872)師範学校へ第1期生として入学し、明治8年(1875)に卒業。浜松へ赴き教師として活躍するが、明治12年(1879)東京に戻り、慶應義塾に学び研鑚を積む。明治14年(1881) に卒業すると、再び愛知で教師となるが、1年で再び東京に戻り、 攻玉社と慶應義塾で教壇に立つ。
明治17年(1884)には「東京横浜毎日新聞」の記者となるが、体調不良を理由に明治18年(1885)遠州周智郡へ退隠する。 翌年、静岡に移り教師としての活動を再開し、さらに「東海暁鐘新報」に招かれ主筆となる。
明治21年(1890)には再び東京へ出て、書肆博文館の求めに応じ、矢継ぎ早に様々な 著作を書き下ろして行く。
この辺りの事情について「渋江抽斎」(その112)で、次のように紹介していることが記される。
「しかし最も大いに精力を費したものは、 書肆博文館のためにする著作翻訳で、その刊行する所の書が、通計約150部の多きに至つてゐる。其書は随時世人を啓発した功はあるにしても、概皆時尚を追ふ書估の誅求に応じて筆を走らせたものである。保さんの精力は徒費せられたと謂はざることを得ない。そして保さんは自らこれを知つてゐる。 」