森鴎外と福島23
2017年 01月 30日
〇 「伊藤蘭軒(森鴎外)」と福島
http://kazenoshin.exblog.jp/23505927/
〇 「伊藤蘭軒(森鴎外)」と福島②
http://kazenoshin.exblog.jp/23508109/
〇 「伊藤蘭軒(森鴎外)」と福島③
http://kazenoshin.exblog.jp/23510293/
〇 「伊藤蘭軒(森鴎外)」と福島④
http://kazenoshin.exblog.jp/23512690/
〇 「伊藤蘭軒(森鴎外)」と福島⑤
http://kazenoshin.exblog.jp/23515526/
〇 「伊藤蘭軒(森鴎外)」と福島⑥
http://kazenoshin.exblog.jp/23517739/
これは、「伊藤蘭軒(森鴎外)」の作品の中に、池田宗家第5世池田鑑三郎氏が福島市大町在住であることが記されていることを見つけたことから、福島とのかかわりある作品と位置づけたものだった。
前回、池田宗家にかかわる話は、鴎外氏最晩年の文業を飾る「渋江抽斎」、「伊沢蘭軒」、「北條霞亭」と連なる今日史伝三部作と称される一連の作品群にかかわるという観点に変えた。それは、福島市大町在住池田鑑三郎氏がかかわる池田宗家の話が、「日本種痘の恩人」から、「渋江抽斎」と「伊沢蘭軒」に横糸のように紡がれていることが分かったからだ。
一つの楽しみ方として、「日本種痘の恩人」を読んで、そこから横糸のように紡がれた「渋江抽斎」その16からその20までの池田家宗家の墓探しの話を読むという読み方ができそうだと思う。そこから、「伊沢蘭軒」その87から90までの福島市大町在住池田宗家第5世池田鑑三郎氏の案内でその関係性か確認されるということを読むという読み方だ。
これが、文学作品の読み方として正しいのかどうかは知らない。
鴎外氏の小説を楽しんで読むほどの読書力がない者にとっては、ここから発展した読み方で「渋江抽斎」も読めるのではないかと考えている。
先にも記したように、「伊藤蘭軒(森鴎外)」の作品にとりあえず目を通した時に、これを読んでみようという気分にはならなかったのだが、「渋江抽斎」の作品ではその壁が低かったような気がしたのだ。むしろ、この池田家宗家の墓探しの話の部分が読みづらいと感じていたからだ。
いずれにしても、「日本種痘の恩人」の作品がその要となるのだが、この作品は「鴎外全集26」以外では確認できていない。
その概要を記しておく。
まず、以下のような疱瘡の沿革を調べた事の概略が記される。
明の帰化僧戴曼公(たいまんこう)に負うことが分かる。その門人には、池田瑞仙(ずいせん)及び其の養嗣子(ようしし)池田霧渓(むけい)の両人が之を継承して新学の先駆となったが、その事蹟が残って居ないことが分かったという。
次に、明の帰化僧戴曼公とその弟子池田瑞仙とのかかわりとその跡継ぎについて次のように紹介されるが、その後が曖昧になって居るとのことだ。
戴曼公は有名な帰化人で、学才あり詩を好くし、勿論一般医術に通じ、殊に痘科に精通して居たのであるが、明亡ぶと同時に渡来して帰化し、隠元和尚の書記となり、宇治黄檗山(おうばくさん)に居たが、辞して長崎に移り其の後数年を経て、再び隠元を訪ねて宇治に旅立ったが、途中病死したのである。
池田瑞仙は親しく戴曼公に師事して、痘科を深く研究した後東京に帰り、向島辺に住んで居たが、瑞仙も中々の博学多才で痘科の大家と称するを得(う)べく、其の功績は永く後世に伝へられなければならないのである。
瑞仙は文化十三年に八十二歳で死し、養嗣子(ようしし)の池田霧渓が後を継いで近年まで痘科には殊(こと)に秀でた医師として門戸を張って来たのである。しかし、其の後池田家は何(ど)うなったか記録にもなく勿論血縁者と云(い)ふような者も見當(あた)らない。
それで、鴎外氏の墓探しが始まるというようなことのようだ。
両人の墓は向島須崎町嶺松寺(れいしょうじ)に歴然として残って居た事は明白で、之は私の友人で曾(かつ)て墓に参詣した人があり、又私の家の寺の住職は能(よ)く知って居る。そして其の傍には戴曼公と池田瑞仙との関係を細叙(さいじょ)した石碑が建てられてあった。然(しか)るに其の嶺松寺と云ふ寺は今は跡形も無くなって居る。何処かへ移して行ったのかと思ったが、全く潰(つぶ)れて了(しま)ったやうだ。潰れる際は墓を何(ど)うするかと云ふに、警視庁の云ふ所では縁の有るものは他の寺院に引き継ぐが、無縁の墓は染井墓地に持っていくと云ふ事だか、染井墓地にも無縁の墓は石も無く少しも判らない。東京府に問ひ合(あわ)して見ると明治十八年現在と云ふ台帳があって、それが一番古いのださうだが、其の中には嶺松寺と云ふ寺は乗って居ない。それ以前に潰れたものに相違ない。斯(か)くて国家に功労のあった新学の先駆を埋葬した處(ところ)は判らなくなり、石碑や墓標は何処かへ行って了(しま)ったのである。墓の有った所は恐らく人家となって居たのであらうが、此の有名な人を永久に記念すべき石碑の如きは庭石となって居るか、それとも摩滅(まめつ)して石屋の店頭に並べられてあるか、何れも推測するに由(よし)ないが、之と同様な事柄は所在に転がって居る事で随分沢山あると思ふ。実利主義に走るのも悪くはないが、斯(か)う云ふ事にも少しは注意して保存するやう各人に於いて注意したら随分保存し得(え)られると思ふ。