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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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森鴎外と福島⑨

森鴎外氏が、熊坂子彦の説を元に眞間の手児奈は「蝴蝶」のことだとしたことが記されるという「北游日乗」を確認している。

「北游日乗」は、明治15年2月から3月にかけて北越に徴兵の業務遂行の旅の日記だが、そのスタートの船旅の途中での思い出話にその事が記されていることが確認できた。

その思い出話に至る経緯を確認しようとしている中で、見送りに来た「佐藤元長(應渠)」氏が会津藩士と分かった。森鴎外と福島県人の出会いということで、そちらも整理しておくことにしたのだった。

肝心の眞間の手児奈にかかわる確認という事からすれば、よそ見ではあるが、鴎外氏の漢詩に係る素養の水準が相当に高い事の裏付けとしては重要な情報ではあると思う。

最初に確認しようと思った眞間の手児奈にかかわる部分は、船が鴻台の下に来る頃に「いとつれづれなるままに奮遊の事などおもひ出づ」ものとして、以下のように記される。


 奮遊とは己卯の歳賀古鶴所緒方収二郎二君と里見義弘の墳を弔ひて天文永禄の昔など語り出で枯魚を嚙みて酒酌みかはしかへりぢに眞間の底児奈が祠に詣でつるをいふそのをりの詩満目寒烟秋色悲笛聲楓影立多時斜橋落日一條路最是傷蝴蝶祠、熊阪子彦の説に氐胡奈とは蝴蝶の義なりといへるに據りたり

 
 二君とされる一人、
賀古鶴所氏は、鴎外氏の6歳年上だが、学生時代に出会ってから生涯の親友になる方として知られる方のようだ。 
 浜松藩藩医の長男として生まれ、東京大学医学部卒業後、陸軍軍医に任官、のちに日本における耳鼻咽喉科の基礎を築いた方でもあるという。

  もう一人の緒方収二郎氏は、この賀古鶴所氏と仲が良かった方なのだそうだ。この方は、一貫して民間の医師だったのだそうだ。


  学生時代の親友たちとの旅行で眞間の底児奈が祠に詣でた時に詠んだ「満目寒烟秋色悲笛聲楓影立多時斜橋落日一條路最是傷蝴蝶祠」という詩に「蝴蝶祠」とある事の解説のようだ。


by shingen1948 | 2017-01-13 09:13 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)