亀岡邸の設計に江川三郎八がかかわる⑥:福島の建築(12の2)
2016年 11月 09日
これは、何日間か福島県立図書館に通って、開架図書から福島県の建設に関係しそうな本全てに目を通してようやく見つけた情報だった。折角頂いた問い合わせに、少しは役立ちたいと思って頑張ったつもりだった。
ところが、今回頂いた資料には、「福島県内では、福島県議事堂や郡山市金透小学校の建設に携わりました」と軽く一行あるのみだ。専門家と素人の差を感じる。
ただ、現存する建物は県技手江川三郎八設計の明治27年(1894)の建築物のような気がするのだが、今でも地元の大工さんが作ったものだとされているようだ。
郡山史関係や福島県史では、金透小学校の建築については、明治8年に建てたという別の2名の大工さんが紹介されるのみだ。
ネット上でも、目にふれた範囲では今でも県技手江川三郎八氏設計にふれられていない。
例えば、「公益財団法人 安積歴史博物館」のホームページでも、「福島県内の洋風建築には、地元の棟梁が工夫したものと、県庁にかかえられた技術者によってつくられたものがあります。」とし、この「郡山小学校(=金透小学校)」は、地元でつくった擬洋風の建物だと紹介される。
http://anrekihaku.or.jp/old_main
そして、現在金透小学校にある「金透記念館」は、明治9年につくられた当時の郡山小学校の校舎について、昭和53年に移転復元したものだとの紹介だ。
専門家の横のつながりはないのかもしれない。
おかげで、「福島県土木史(平2.3.31/県土木部)」の建設年表に、明治27年(1894)の金透小学校の建設設計が県技手江川三郎八氏との記載を見つけた時に、発見の喜びのようなものを味わわせていただけた。
三島県令が福島県に着任して、優秀な大工さんを県職員として研修を積ませて、県の建物を高度な技術で建築したという話は、福島市内ではあまり知られていないように思う。それは、無頓着というよりも、三島県令に対する反発の感情がそうさせているようにも思う。
福島市が県庁所在地であるにもかかわらず、当時の擬西洋風の公共施設の建築物が全く残らないということも、その辺にあるのだろうと思っている。