「新平家物語(吉川英治)」が描写する「信夫の里」⑭
2016年 10月 12日
「ウィキペディア」で確認すると、筆の「金竜山人」は、為永春水【寛政2年(1790)~天保14年(1844)】という江戸時代後期の戯作者のようだ。本名が佐々木貞高、通称が長次郎とのこと。その筆名の一つに、「金竜山人」があるようだ。
江戸の有名作家や権威者の名を借りることによって、内容の正しさを強調する手法なのだろうと思うが、年代が少し合わない。
今回、確認しておこうと思ったのは、こちらの方ではなくて、この歌を選定した伊達熊阪定邦の方だ。
熊阪定邦は、散歩資料の中では号の「台州」ということで知られた上保原村高子の儒学者だ。
「熊坂墓地」に建つ案内板では、この「台州」の号で、父の号「覇陵」、子の号「盤谷」で、共に江戸中期から後期にかけての儒学者・篤農家として知られているとある。
詩人としても高名であったことも付加的に紹介される。
今回確認する中で面白い紹介を見つけた。
「福島県立図書館」の「江戸時代に『桃太郎』を漢文にした『熊坂台州』」という紹介だ。こちらは、付加的に紹介された漢詩人という側面が中心的に紹介されている。
この紹介文の後半にある「天明3年からの洪水や冷害による大凶作が元で大飢饉が発生した。この時期を境に台州には思想上の変化が見られ、文学運動を停止して救貧事業に力を尽くすことになる」という方が中心的に紹介されているのが一般的な紹介のようなのだ。
それが、「名は定邦または邦。字は子彦。通称は初め宇右衛門、後に(たまき)、号を台州という。上保原村高子生まれの漢詩人である。元文4年(1719)、豪農の家に生まれた。父の定昭(覇陵)は、江戸後期に保原を中心に漢詩文の文学活動を繰り広げ、自らの屋敷を「白雲館」と号した人である」と紹介される。
漢詩人の文学活動の視点からの紹介だ。
その後、台州は22歳の宝暦10年(1761)に江戸に出て入江南溟に師事するのだが、それ以降の経歴や著書が紹介される。
翌年には、江戸から上方へ約3か月間の旅に出て見聞を広めたともある。
肝心の桃太郎についての紹介の概要は次のようだ。
安永年間末、台州40歳の頃に弟子に文章修練として、物語を語らせ漢文訳をさせる。その模範解答として取りまとめたものの一つが「桃奴事」(桃太郎)という事のようだ。
寛政4年に出版された書物で、台州が主宰する正心塾の入門テキストとしても用いられたとのことだ。その中に納められたが「二翁事」(花咲爺)「蟹猿事」(猿蟹合戦)「桃奴事」(桃太郎)の三話とのことだ。