曽良氏は入江野村中村氏をメモってる④
2016年 08月 30日
しかし、これを誤りではないとする説もあるようだ。
「旅あるき『奥の細道』を読む(麻生磯次)【明治書院】」では、「飯塚」でも誤りではないという説を紹介している。
飯野氏は「基礎研究」で、伊達政宗の「飯塚温泉入湯記(伊達文書)」の例をあげ、横沢氏は「芭蕉講座紀行編」で、「伊達家治家記録」天正17年4月28日の条に「飯塚より温泉を汲寄せ浴せらる」とあるのを例としている。とし、芭蕉の頃、飯坂温泉は「飯坂」と呼ばれていたのは、「曽良日記」からも明らかだが、時には飯坂・飯塚両様に呼ばれた可能性と、芭蕉の好みから古く飯塚といわれたことをもとに旧い呼び名を用いた可能性を想像しているようだ。
思うに、古い時代には、その辺りを広く飯塚村といったものではないだろうか。現在は「飯塚」の名は、平野村(今は飯坂町に合併)の大字平塚の小字としてわずか名残りをとどめているにすぎないが、もとは飯塚村と称したらしく、現在の飯坂温泉あたりまでもその名で呼ばれたのであろうか。
「平田舘」を整理した頃には、散歩の感覚から「瀬上―下飯坂―高梨―飯塚六角―星の宮」のコース取りに不自然さを感じていたので、この説に積極的に賛同しただろうと思う。
http://kazenoshin.exblog.jp/13680821/
ただ、コース取りの不自然さを感じるのは「飯塚六角→星の宮」の部分が大きかったようにも思う。「曽良氏は入江野村中村氏をメモってる」とすれば、この辺りで「瀬上道」とするそのまま進行する道筋での想像であり、不自然さは薄まる。
これを読む人にとっては揺らぎと感じるだろうが、整理する立場では、いろいろなコース取りができて、想像が膨らむということでもあると思っている。