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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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曽良氏は入江野村中村氏をメモってる②

 前回は個人的な平野村への思いとのかかわりで、曽良氏が、随行日記の裏表紙に「入江野村」在住中村岡衛門氏をメモったことに興味を持ったことを整理した。
 しかし、それだけではなく、芭蕉一行の足取り推定にもかかわる情報なのではないのかなと思うのだ。今回は、そのことついて整理しておく。

 実は、「平野村道路元標設置場所跡を探す」散策で「平塚村」と「入江野村」の村界としたが、芭蕉の「奥の細道」の時代、ここは入江野村と飯塚村の村界だったと思うのだ。
 明治初期に、飯塚村と平田村が合併して「平塚村」は誕生したのだ。その中の東側に位置した集落が「平田村」で、その西側に位置していたのが「飯塚村」だったようだ。
 その村界は確認していないが、平塚村里程元標を置いたという山形街道と瀬上街道が交差する東六角地区は平塚村の位置ではないかと想像している。
 飯塚村は、平塚村と入江野村の間に位置する小さな集落でしかなったと想像する。

 回りくどくなったが、芭蕉一行は、福島で郷野目村の神尾庄衛門氏宅に立ち寄った後、福島宿に宿を求めている。これは明らかな事なのだが、想像を加えれば留守でなければ一夜の宿を頼りたかったのではないのかなと思うのだが、どうだろうか。
 そのこととのかかわりだ。
 「福島で郷野目村神尾庄衛門」のすぐ隣に「同 入江野村の中村岡衛門」がメモされているということは、曽良氏の頭に、飯坂で宿を求める前に、ここに立ち寄ろうとしなかったかという想像だ。
 そして、その立ち寄ろうとした手前の目印となる集落が「飯塚村」という位置関係にかかわる勝手な想像だ。

 これともう一つかかわるのが、芭蕉は「飯塚」と「飯坂」について混乱しているという情報だ。
 「ふくしま奥の細道(横井博)」では、そのことについて次のように解説している。
 (『奥の細道』本文で)飯坂をどうして飯塚と書いたかについては、いろいろな説がある。曽良の随行日記、5月2日の条には、
夕方 雨降、夜に入、強。飯坂に宿、湯に入。
 と明らかに「飯坂」と記してあるほどだから、素龍の書き誤りではない。芭蕉の原稿に「飯塚」と書いてあったにちがいない。そこで芭蕉が「飯坂」と書くべきをうっかり「飯塚」と誤ったと、一般に考えられている。

by shingen1948 | 2016-08-27 07:53 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)