地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

福島の鉱山37~信夫地方の鉱山⑩「大笹生鉱山」②

a0087378_9132526.jpg 「福島の鉱山②」で近代の「大笹生鉱山」について整理している。
 「福島の鉱山」で確認した限りでは、昭和の始め、製錬所の施設もあって採掘精錬されていたとのことではあるようだが、大きな鉱山ではなかったように思われる。
 http://kazenoshin.exblog.jp/page/10/
 しかし、「ふくしまの歴史」では、資料をもとに、この「大笹生鉱山」が昔から重要な鉱山であったらしいことが紹介される。
 その資料の一つが、刃傷沙汰の報告記録。以下のように紹介される。
 正保2年(1645)上大笹生村の大笹生金山の役人忠右衛門が、役銀(藩に納める産銀)のことで同僚助兵衛を殺して「はたもの」(はりつけ)になりました。この事件で本荘繁長の家臣5人と忠右衛門の息子2人が首をはねられ、妻と娘は田畑を没収されました。台山の南麓の字金山にその坑道跡があります。
 正保2年(1645)の事件で、本荘繁長の家臣がかかわるらしいことから、この事件は、上杉氏が統括していた時代らしいことが推測できる。上杉氏文書にかかわる資料かなと想像される。
 ここで、「大笹生金山の役人忠右衛門」とあるが、別資料によれば、この方は日和田出身の鍛冶職で、大笹生金山に招かれて「山先かち」という役職に就かれていたようだ。このトラブルは、この方が、新鉱脈を発見したこととかかわるものとの推定もあるようだ。「同僚助兵衛」は、山めぐり役人とのこと。
 この事件で首をはねられ処分された者が「本荘繁長の家臣5人と忠右衛門の息子2人」とあるわけだが、気になることがある。
 「忠右衛門の息子2人」はまあまあ分からなくもないが、「本荘繁長の家臣5人」の処分というのは分かりづらい。これも、別資料で確認すると、この方々は捕らえられた忠右衛門を助けようとして手向かった堀子5人ということのようだ。全員が本荘繁長の家臣ということではなく、土舟村の者、立山の者も含む5人ということのようだ。

 二つ目の資料が、堀田氏時代のもののようだ。
 元禄3年(1690)の日記に、福島商人の渡邉又郎(粉又)が山口村の金山採掘を願い出たことにふれたが、この願書には大笹生銀山のことも書かれているそうだ。それが字銀山だろうとする。

 三つ目が、板倉氏時代のようだが、それが藩とかかわる資料なのかどうかは分からない。紹介内容は次のような事だ。
 享保15年(1730)半田銀山の頭を招いて鉱脈を鑑定させ、享保18年(1733)吹き立てたところ9.1匁(34.125g)の銀が出たという。この採掘は、江戸商人山城屋宇佐美平助父子が請け負ったとのことだ。
 宝暦6年(1756)頃も銀が出ていたという。
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by shingen1948 | 2016-08-04 09:15 | 福島の鉱山 | Comments(0)