地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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福島の鉱山23~信夫地方の鉱山「松川鉱山」⑤

 「松川鉱山」の沿革を確かめる。
 「松川のあゆみ」によれば、言い伝えでは鎌倉時代の発見と言われているという。
炭焼藤太とか、その子吉次と結び付けた伝説や「宿地千軒」と結び付けた想像等を交えて解説される。
 文書的に確認できるのは、天正年間だとする。ただ、文書で確認できる桑折町の半田銀山が栄えた時代や大森金山が開坑された時代にはここも採掘されていたはずという推定を含んでいるような気もする。それはともかく、松川鉱山の産金も会津藩主蒲生氏の経営によって盛んに採鉱されたことが想像されるという。
 直接的には、幕末に近づいたころ、特に天明以降、各藩は藩財政上金山開発に入るのだが、この頃に八町目銀山が開坑されたという記録が残るのだとか。

 「ふくしまの歴史(近世)」の信夫地方の鉱山業の項に「幕府の老中から上杉藩主上杉綱勝に届いたキリシタン探索の指令状には、小池金山のことが書いてあります。松川町の字小池がそれでしょう。近くに字金山という地名もあります」と紹介される。
 上杉綱勝が上杉藩主だった時代を確認すると、正保2年(1645)~寛文4年(1664)の時代で、領内のキリシタン弾圧強化は明暦3年(1657)頃とのことなので、少なくとも八町目鉱山の「小池鉱」は、この頃は稼働していたということなのだろう。
 こちらも直接的な開坑の記録ではないのだが、この頃採鉱されていたという確からしさの確率は高いと考えられる。この鉱山の記録への初出をこの時代まで遡ってもよいのではないのかなと素人は思うのだが、どんなものだろうか。

 明治に入って再び採鉱されることについての「松川のあゆみ」の解説は、具体的で詳しい。
 まずは、明治末に三角氏による採鉱があるようだが、これは成功しなかったという。
 次の採鉱は、大正の始めの橋本組による再開のようだが、ここから軌道に乗るようだ。
 大正3年には、約2400屯の精鉱を産出し、日立製錬場に売鉱したという。先に整理した古天神地内の精錬所ということだ。
 ここで、水力を利用した石臼に良質鉱を入れ、スタンプで鉱石を搗(つ)き砕き、水銀アマルガムによる方法を用いたとある。
 「松川南鉱山」にも精錬所があったらしいという情報も、この時代辺りのようだ。

 この鉱山が最盛期を迎えるのは、昭和3年瑞宝鉱業(株)に経営が移ってからのようで、現在も残るという精錬所は、昭和9年に完成したもののようだ。
 その後、昭和14年には東北鉱業が継承するが拡張するには至らず、昭和16年には、精錬所操業を中止し、鉱石はすべて日立精錬所に送られたという。
 そして、昭和18年政府の金山整備政策のため、精錬施設が撤去され、終戦とともに休山したということだ。
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by shingen1948 | 2016-07-10 18:17 | 福島の鉱山 | Comments(0)