福島の鉱山⑩~信夫地方の鉱山「大森鉱山」
2016年 06月 24日
「福島の鉱山」で、「福島鉱山(信夫山金山)」の手前に解説されているのは「大森鉱山」だ。この金山の歴史は古く、ここが城山であることもあって、ついそちらに話を持っていきたくなるのだが、そちらの情報は少ない。
ここは、近世に入っても開発は続けられていたようで、その最盛期は、昭和13年田村鉱業会社が買収してからのようだ。今回は、そちらの話を中心に整理する。
これ以前は、主として上部の酸化帯を稼行して混汞精錬をしていたとのことだが、田村鉱業になってからは竪抗で福島盆地の表面以下の部分まで採掘するようになったという。また、その精練も硫化物を加へる全泥青化精錬場を建設したということで、重要金山の一つになったということだ。
昭和15年の算出精錬含金量は61764gで、昭和16年は69846gと報告されている。これは、県内第3位、東北諸金山中第10位の産出量だったということだ。重要金山であったという割には、あまり知られていないような気がする。
城山の山頂近くの駐車場西手に案内板が設置される。
そこに採掘や金山施設の様子が図示されているが、これが最盛期の時代のもののようだ。
「福島の鉱山」によれば、その近代の沿革は次のようだ。
(慶長年間採掘後)、廃山中のところ、大正2年安孫子平三郎氏再開、大団幸之助氏に委譲、混汞精錬を開始し、大正6年山口嘉三氏により㈮205匁、銀714匁を産したが、大正8年休山、同14年山井景美氏再開、一日8~10屯の処理を続けたが昭和2年坑内陥没のため休山、同8年角田文平氏再興、混汞銅板採金を開始し、翌9年には金10418g、銀47626gを産した。
その前に、「露頭付近には旧坑多く、慶長年間採掘の跡と伝えられる」と解説されるが、別資料では、ことについて次のように解説されている。
本金山の起原はよく分からないが、鉱床露頭部には黄金八幡の旧祠があって、附近に石臼等を産していて、これが金鉱製錬の遺物と認められているということだ。また、鉱区の一部である玉の森には、珪化石英粗面岩質凝灰岩中數個の竪坑存在していて、探鉱跡だと考えられているとのことだ。
その別資料によれば、大正時代の採掘については、大正末期まで年間1万円以上金銀を産し、その産出量は継続されていたとされる。それが、大正末期に衰退し昭和8年に再興されるのは、金価高騰による復活だったとの解説だ。
ただ、この時代までの採掘は上部の酸化帯で、その精練は混汞精錬ということだった。その復活の流れで、田村鉱業会社が買収して最盛期をむかえたということのようだ。