福島の鉱山⑧
2016年 06月 17日
この「福島の鉱山」自体が、信夫山の整理の余談なのだから、余談のそのまた余談ということだ。
青葉学園が茂庭村蛇体に創設されるのは、昭和21年6月で、昭和23年4月には青葉学園小学校と認可され、5月には児童福祉施設として認可される。それ以降の事については、「わが大滝の記録」や< 街道Web >にも紹介されるのだが、創設者が志をもって福島にやってくるのは、その前年の昭和20年4月だ。
創設者は、戦争孤児を引き取り、養育をしていく中で、その子供の教育と言語研究と両立させたいとの念願を持っていた。
その地を福島とするのは、佐伯功介氏というローマ字学者の友人に福島県知事石井政一氏を紹介され、その石井氏のご厚意で中野字東横川のw氏の蚕小屋を紹介されたことに始まるようだ。
ここで志が一時頓挫するのだが、それは、前の月の昭和20年3月10日に東京大空襲によって軍人援護会東京支部が焼失し、孤児名簿も焼失してしまうからのようなのだ。
しかし、それでも創設者ご夫婦は、約束通り中野字東横川の蚕小屋に居を構え、中野村国民学校杉の平分教所助教としてやってくる。これが、福島と青葉学園創設者とのつながりの最初のようだ。
中野字東横川のw氏側の御事情としては、当時w氏は地区の学務委員をしていて、分教所に先生を探して来るというのもその一つの仕事だったようだ。それで、空いていた蚕小屋を貸すことを条件に、言語学者である創設者を中野村国民学校杉の平分教所助教として確保したということのようだ。
創設者側にとって、もう一つ予定が狂うのが、終戦によって再び養蚕が活気づき、蚕小屋を貸せないと言いだされたということもあるようだ。
それで、孤児を引き取り、志の学校を創設するために、更に山奥の鉱山跡を探し当てたということだ。そこが茂庭蛇体の鉱山跡で、ここに引っ越して福島県の戦災孤児も引き取り学園創設したということだ。
なお、ここで登場する佐伯功介氏は、自分はひらがな入力なのでお世話にはなっていないが、確かローマ字入力のキーボード配置創設者のはずだ。