地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

福島の鉱山⑤~「中野鉱山」

 「わが大滝の記録」の「鉱山ブームと明治時代の教育」の項では、「中野鉱山」については次のように紹介する。
 蛇体鉱山と大滝鉱山が鉱床の薄さから大正時代に閉山に至っているなか、中野鉱山は幾多の紆余曲折(経営者の交代や閉山・再開など)を経ながらも昭和42年頃まで操業が続いた。
 中野鉱山の職員や鉱夫の子供達は大滝分校で大滝集落の子供達と一緒に教育を受けており、現在(平成25年)でも大滝集落出身者との交流が継続している。 *(H25年6月 紺野文英 追記)
 ここでは、この中野銅山の位置についてはふれていないが、「大滝住民も創立に協力した私学校 『青葉学園』」の項では、その移転先とのかかわりで「現中野第二トンネル米沢側出口の小川沿いに在った中野鉱山である。 昭和21年10月当時、中野鉱山は丁度創業休止中であり、やはり休業中の鉱山宿舎を借りての移転だった」と紹介する。
a0087378_6184192.png その青葉学園側の資料を確認すると、次のような中野村大桁時代の学園の位置情報が読み取れる。
 万世大路は、現国道13号線中野第二トンネルの東口から北に向かい、山を巻いて左へ3の形に弧を描きトンネル西口に達する。その東口から400m程の所で、道路の右側に少しばかりの平地があって、ここにあった放棄された鉱山の建物を園舎としたとある。
 その園舎の平面図と校舎写真も確認できる。更に、当時を思い出して描いたとされる近景の様子も示される。
 その図を元に、地図と重ねればこんな感じかなと思う。ただ、「わが大滝の記録」の位置情報では、「現中野第二トンネル米沢側出口の小川沿いに在った中野鉱山」とあり、昭和41年の航空写真と重ねたりしてみると、もう一つ西側のカーブかもしれないとも思う。そこは曖昧なままだ。
 
 現在アクセスできない状態だが、< 街道Web >の情報も重ねる。
 中野銅山は、中野第二トンネル西口付近の小川左岸で、その鉱石は索道で対岸まで搬出され、川には作業員用の小さな橋が架けられていたとの情報。ここには鉱山住宅があって、15世帯(約80名)が住んでいたとのことだ。
 その鉱山住宅街は、この地図の万太郎家とした辺りを想像していることが伺える。

 なお、青葉学園の資料では、ここが中野大桁とあるだけで、どこにも中野銅山跡であるという記述はない。しかし、「わが大滝の記録」と< 街道Web >の情報を重ね合わせてみると、ここが中野銅山跡であることに間違いはなさそうだ。
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Commented by TUKA at 2016-06-15 07:03 x
申し訳ございません。現在、「街道Web」のあるサーバが落ちておりまして、閲覧できない状態になっております。

さて先日、大森鉱山に関する記事にコメントしたのですが、記事ごと消えております。
当該の記事は削除されたのでしょうか?
Commented by shingen1948 at 2016-06-15 12:50
失礼しました。
削除はしておりませんが、見落としていました。確認します。
最近、体調の都合もあって外に出れないので、今までの資料を整理しています。
by shingen1948 | 2016-06-14 08:16 | 福島の鉱山 | Comments(2)