福島城址⑦~密語橋に込められた思いとは
2016年 01月 08日
ただ、もともとは信夫の里の中心地だった西在の地域の人々にとって、その中心機能を奥州街道筋の杉妻に移動させてしまった蒲生氏をどんなふうに感じているのかなという思いとを重ねて想像すれば、この伝説の面白さが分かるかなとも思えてきているとこところだ。
恐らく、この木は代々切ってはならないと言い伝えられてきたご神木なのだと思うのだ。それを城の整備のために切ってしまった権力者と神木の霊の呪いということに西在の地域の人々の思いを重ねて眺めれば、興味深いことなのかもしれないとも思えてきているところだ。
それにしても、そんなご神木を材料にした橋が、この城にとってはどんな機能をはたしていたのかということは確かめておきたい。
現在の地図をもとに、福島城があったころの施設の位置関係を分かりやすく表記するのは「紅葉山公園」に掲げられた案内図だ。これが現在の地図とのかかわりが分かりやすい。この情報を今回発掘調査された成果を生かした地図に重ねてみると、城の状態とのかかわりも見えてくる。
「紅葉山公園」に掲げられた案内図と見比べて描いた道筋は濃い赤で示した。茶色で示した道筋は、曖昧なことを「福島城内外之図」の情報と見比べて付け加えたものだ。密語橋を渡った道筋は堀で遮られているようでもあるが、「城道口」の道筋とつながっているようでもあったのでつないでみた道筋が一つ。もう一つが、「密語橋口」の南側の道筋だ。
ここに、「ウィキペディア」の「福島城」で確認できる次の福島城の出入り口情報とを重ねてみる。
福島城南側の外曲輪に存在した出入口のことで見附番所が置かれていた。現在の杉妻会館横の福島市道中町・柳町線(密語橋通り)上に存在していた。江戸時代、密語橋口の両詰には密語橋通り沿いに武家屋敷が立ち並んでいた。図の西門につながる道筋は、「城道口」と紹介される道筋だと思う。現在の自治会館の裏の道筋。図の西口木戸につながる道筋が、「馬場町口」と紹介される道筋だと思う。
「江戸時代、密語橋口の両詰には密語橋通り沿いに武家屋敷が立ち並んでいた」とあるが、「福島城内外之図」の図では、ささやき橋口番所を入ると、右手(東側)に外役所にかかわる施設とその番所が読み取れ、代官役屋敷など数件の侍屋敷は左手(西側)みえる程度のようにも思える。
この資料で、南に延びる道筋の東側に米蔵が並ぶのだが、その米蔵の入り口も密語橋口近くで、そこにも別の番所が描かれることも読み取れた。
ささやき橋と城の機能とのかかわりだが、ささやき橋口番所を通って直接内堀内に向かうということではない。しかし、そのささやき橋口番所を中心としたこの南口付近は、外役所、米蔵にかかわる重要な施設が立ち並んでいる。城と重要な食料施設の間にあて、その管理及び運搬にかかわる橋だったということのように思われるが、どうだろうか。