福島城址⑥~蒲生氏郷公時代の近隣の町村とのかかわり②
2016年 01月 07日
桑折西山城跡中舘の改変についての仮説自体については、上杉氏と伊達氏とのかかわりのような気がしているが、氏郷公時代とかかわるのは、説明会参加者の白石城についてのこそこそ話だ。
http://kazenoshin.exblog.jp/16969591/
それは、今回の震災(3.11)にかかわる調査の中で、蒲生郷成氏が白石城代の頃の石垣が確認されたらしいとのことだ。
白石城は、天正18年(1590)伊達政宗が、豊臣秀吉に臣従するまでは、伊達氏がかかわっている。それ以降、白石城は会津の支城となっている。蒲生氏郷公が若松城主となった時にもその支配下に置かれたという。
その城代が、重臣の蒲生郷成氏で、この時に益岡城と改称され、織豊系城郭として改修が行われたとされていたようだ。
ただ、今まではこの話の真偽が分からなかったという状況だったようなのだが、その石垣らしきものが発見されたということで、確からしさが確実に増したということらしい。
なお、その後慶長3年(1598)に氏郷公が急死して秀行が宇都宮へ移封されると、若松城主が上杉景勝になると、それに伴って上杉家臣甘粕備後守景継氏がこの城の城代となり、再び白石城と改称されるという。
福島城下整備の頃にということで関連づければ、杉妻城から福島城が改称したように、白石城も益岡城と改称しているらしいこと。その時代の近隣の町村の様子を伊達氏と蒲生氏への地域の思い入れの違いも考慮すれば、以下のような想像がなりたつか?
昨日整理の霊山地域では、伊達氏への思い入れが強く、蒲生氏には否定的。白石地域の伊達氏への思い入れは強いのは分かるが、蒲生氏への思いはニュートラルな感じかな。
ならば、蒲生氏の支配が続く中での、中心地を解除された信夫西在の蒲生氏への地域の思い入れはどうだろうかなということの興味がわく。