義民太郎右衛門霊堂⑤
2015年 12月 30日
十数人と江戸に潜行し、下谷宿長者町の白子屋文左衛門宅を本拠に直訴をこころみ、再三目安箱への投函をしたという。この時の「大森附佐原村太郎右衛門江戸代表御箱江致直訴候注進書」が有名で、「佐原太郎右衛門願書」あるいは「大森注進記」と称されているものだとか。(※有名とのことで確認しようとしているが、今のところみつからない)
捕り方からうまく逃れた太郎右衛門氏は、江戸にとどまり訴え続けたが、享保14年12月初旬に捕らえられて死罪獄門を宣告される。
翌15年正月21日に、領民への見せしめのため故郷である佐原村の入口である荒田口で斬首獄門に処せられたということだ。
この丘の北側に、その太郎右衛門氏が眠る。
その後も福島県内では騒動は治まらずに享保年間だけでも14件の一揆が頻発したという。
地元誌では、当然農民の立場で、凶作時における農民側の要求の視点から事実を見守る。
①減収事情を述べての減租出願
②飯米・拝借金又は種子籾等の借用出願
③定免制の拒否
④増祖反対の要求
それは当然なのだが、凶作時における領主・代官の被害調査の最大の関心事は、貢租の減収をいかに防ぐかということである。従って、領主代官は、農民の請願又は一揆等がなければ自ら減租破免を実施しない。それどころか、逆に強力な収奪の仕方でむしろ増祖政策を採れないかを狙う。
農民から請願が出てしまった時には、以下の3点について如何に措置するかが腕の見せ所となる。
① 実収調査による被害歩引
② 定免制の場合といえども定額収奪努力
③ 減収にかかわらず増祖等の方策
なお、農民に重税を課した代官岡田氏は、その後栄転を果たしたという。地元誌の立場では納得いかない事だが、幕府にとっては、それぐらい本気で農民から搾り取れる名代官だったとの評価であることが分かる。