地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「福島民報」が伝える渡利模擬原爆投下記事④

 渡利模擬原爆では一人の方が亡くなっているのだが、その事は、記事には登場しない。「被害極めて軽微なり」とし、極めて軽微な被害の一つに含まれているという構成だ。
 そのかわりに、着弾地点近くにいたにもかかわらず生き延びた方が紹介される。
 記事によると、その方は「『ナーニ、俺達は泥を被っただけですよ』と至って元気だった。」そうだ。ただ、もしもこの5t爆弾が着弾してさく裂した位置に建造物があったりすれば「被った泥」は、瓦礫ということになるはずだ。単なる道路であったとしても、その被った泥というところは、砂利や瓦礫ということになるはずであり、この方たちは即死するところだったということだ。生き延びたのは、着弾がたまたま田んぼだったので、泥を被って済んだということであり、単に運の良さだったに過ぎないということだ。
 実際の生死にかかわる被害は、さく裂した爆弾の破片が当たった方1名だったが、これが着地点が少しずれれば、それだけでは済まなかったはずなのだ。

 この時に福島で報じられることのなかった亡くなられた方の様子については、東京の地方新聞である「東京新聞(2012/7/18)」で知ることができた。
 このことは、先にも整理したが、再掲する。
 「弟奪った「模擬原爆」に原発事故重ね 大事なこと知らされねぇ」と題したの記事の中に、亡くなられた方の姉が次のように証言されたと紹介される部分があった。
 自宅から数百メートルの田で弟が命を落としたのは、一九四五年七月二十日の朝だった。
 「姉ちゃん、俺が行ぐから」。雲がたれ込め、今にも雨が降りだしそうな空模様。五つ年下の隆夫さんが蓑(みの)と笠(かさ)を身にまとって田の草取りに出掛けた。見送ったミチさんが弟の言葉を聞いた最後となった。「なぜか寂しげな目をしてたな」
 落雷のような炸裂(さくれつ)音と地響きがした。米軍の爆撃機が投下した一発の火薬爆弾。いろりの下座に腰掛けて地下足袋を履こうとしていたミチさんは、敷居まで吹き飛ばされた。母と二人で近くの山に逃げると、弟が除草をしていた田から黒煙が上がっていた。
 「かあちゃん、隆夫やられた」。山を駆け降りたミチさん。爆風で水がなくなった底土の上に、泥まみれで腹部をえぐられた遺体を見つけた。あまりの衝撃に泣くことすらできなかった。
 この爆弾は、人類初の原爆投下を成功させるために米軍が訓練として投下した模擬原爆だった。ただ、模擬原爆の存在や被害は、国民に長く知られることはなかった。
 隆夫さんの命を奪った爆弾の破片は、近くの瑞龍寺に保管されている。見つけたのは父親。爆死から十数年後、「息子の供養に」と寺に預けた。
 戦後、農業や看護の仕事をして嫁がずに家計を支えてきたミチさん。「隆夫をはじめ多くの人が亡くなったのに、戦時中のラジオは『わが方の損害軽微なり』と流してた」。そんな憤りの矛先は今、東電に向く。
 ここに「被害極めて軽微なり」としたことへの怒りは、表現されているが、今回の企画展に参加して分かったのが、もっと深い怒りだったのではないかということだ。

 報じられたのは、待避の姿勢を正しくとれば、どんな時でも生き延びるということだ。それが、今でも語り継がれているということは、ここで培われた価値観は、今でも健在だということだ。
 ということは、この時に亡くなられた方に浴びせる世間の目には、この待避姿勢が取れなかったのではないかという耐え難い批判の価値感が込められていたのではないかということだ。「爆風で水がなくなった底土の上に、泥まみれで腹部をえぐられた遺体」の状況から、客観的に見ればそんな問題ではないはずだが、ここで形成された価値観で見る世間にも嫌気がさしていなかったかとも思う。
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by shingen1948 | 2015-11-13 08:23 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)