鳥渡山王社付近散歩の振り返り③
2015年 10月 25日
まずは、「福島県の歴史散歩」の「陽泉寺周辺」の解説だが、今回の散歩の概観をすっきりとまとめてもらった感じがする。
この地域は鳥渡といい、古く鳥和田と書いた。二階堂氏が大きな勢力を持ち、仁治元年(1240)の二階堂基行の譲り状に地名が登場する。延文2年(1357)二階堂時世は湖山寺を開き、応安4年(1371)年、円勝・乗円作の木造釈迦如来坐像(国重文)を安置した。現在湖山寺は礎石と地名古山寺を残すのみであるが、釈迦像は陽泉寺に安置されている。次の「朝日舘」についての解説も、二階堂氏の存在を意識することで、すっきりする。
ここには佐藤元治一族の信夫小太郎重信が住んだものの、伊達持宗が近隣を侵略していると関東管領足利持氏に訴えたのは二階堂常陸介であり、そのため応永20年(1413)に「大仏城合戦」が起こったことからも、その後この地域を領有した二階堂氏との関係は深いと考えられている。次は、近くの郷野目周辺の地域史を概観した半沢氏の資料の中世部分の解説の確認。
「頼朝の東北侵略」については、「石那坂合戦」の項で次のように焦点化している。
鎌倉時代の初頭にはこの地では歴史上名高い佐藤庄司らの石那坂合戦(吾妻鏡)があるが、奥州藤原氏の武士団の一員として河辺の太郎(高経)がおったがこれは郷野目太郎だという説もある。このころ信夫の庄の地名には保木田(ほうきだ=方木田)というのも見えている。「南北朝時代」については、次のように二階堂氏が佐藤氏と共に登場する。
信夫の庄司の子孫の大森城の佐藤盛衡や鳥渡の二階堂氏は西在の武士団と共に北朝側につき、霊山にたてこもった南朝の雄北畠一族は同族の弁天山椿館の春日顕国、信夫山の小山定朝らと共に北朝側と幾度も戦いをまじえている。それは、60年のながきにわたった。ここで、先の「福島県の歴史散歩」の「陽泉寺周辺」の解説に戻ってみると、「大仏城合戦」があった時代からは伊達氏側からの解説になっている。つまりは、この時代あたりからは、信夫の里も伊達氏の支配下に入るということが概観できるということなのだろうと思う。
足利氏が室町幕府をきずくと、伊達持宗は大仏城を根拠として関東管領足利持氏に兵を挙げた。応永20年(1413)のことである。持宗は二本松の畠山氏や須賀川の二階堂氏に命じて大仏城を攻め幾度か攻防が繰り返されている。これ以降の時代は、福島旧市内を視点とする「福島市史」を基にする散歩資料解説と重なる。
伊達氏はその後170年にわたってこの地を支配した。伊達氏に従う武士の数は七千騎、領内には300余りもの寺院があり、大寺院には200人もの僧がいたと伝えられる。