鳥渡山王社のマカテヤ記念碑⑥~山田村の散策振り返り25
2015年 07月 09日
というのは、確認できる具体例と自分の持っている移民にかかわるイメージとにズレがあるように感じたからだ。
こちらも拾い読みでしかないが、確認できたことの概要はこんな事。
明治政府と称する機関の肯定的な海外発展の道は、欧米文化吸収のための留学と周遊だったようだ。東北北海道開発との兼ね合いもあって、海外出稼ぎの道には厳しかったようだ。
その背景には、最初の渡航解禁事例が、グアムとハワイの労役出稼人のようだが、その実施は確かに明治政府と称する西軍が行うが、その計画許可は幕府によって許可されたものだったということがあったようだ。
更には、ペリーが浦賀に来た時点で、英国が勝手に小笠原諸島を自分のものにしようとしていたという動きがあったようで、日本がここを自分のものという意思表示をして、ようやく手放さなくてもよい状態になったというような事例もあって、西洋人には、隙を見せられないという学びも関係したようだ。
ただ、海外渡航の希望者からすれば、その実現の為には実際的にはこの手段しか方法がなかったということでもあったようだということもあるようだ。
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「鳥渡山王社のマカテヤ記念碑~山田村の散策振り返り⑳」に、玉井人ひろたさんから、野内与吉氏にかかわる情報を頂いていたが、そのままになって失礼してしまっていた。
今回の整理で、海外移民をどうとらえればいいのかがちょっと分からなくなっていて余裕がなかったというのが、言い訳だ。
http://kazenoshin.exblog.jp/21407346/
野内与吉氏について紹介される「東京大学総合研究博物館」の広報のページも紹介いただいた。大玉村出身者で、今、村の移民で最も話題の方とのことだった。
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/web_museum/ouroboros/v19n3/v19n3_nouchi.html
マチュピチ村初代村長野内与吉さんのお孫さんの野内良郎氏を「あだたらを知る会」の講演会にお招きして「マチュピチの風を感じて」の題で講演頂いた事は知っていた。
その内容の概要については、デヴィ夫人のブログである「デヴィの独り言 独断と偏見」で紹介されている事をもとに想像していたところだ。
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-11467456049.html
「デヴィ夫人のブログ」を元に、その経過を確認する。
大正8年(1919)ブラジル移民で、その後ペルーに入国 <先の広報では、大正6年(1917)に契約移民としてペルーへ渡る。その後、放浪を挟んで大正12年(1923)に再びペルーへ>
「あだたらを知る会」の紹介では、昭和14年(1939)にデヴィ夫人紹介では、昭和21年(1946)に、マチュピチュ村長となる<先の広報では、昭和14年 (1939)~昭和16年(1941)に、マチュピチュ村の最高責任者である行政官となる。マチュピチュ村が正式に村になるのは昭和16年(1941)で、与吉はその直前から村の実質的なトップということで、これを村長と表現したようだ。なお、昭和56年(1981)~昭和58年(1983)に、次男が村長に>
※ 実際の役割としてトップ就いた時には、既に村の長としての存在であったという事もあるようだ。
昭和10年(1935)に木造3階建てのホテルノウチを建設するが、1階は、郵便局や交番として使えるよう村に提供、更に、村人と共にダムを作り発電をし、灯りが灯る村を構築して村民の増加に貢献しているという。
昭和38年(1958)三笠宮殿下のペルー訪問でマチュピチュ遺跡見学するが、この時、 野内与吉氏の長女 オルガ・野内氏が三笠宮殿下に 花束を贈呈。野内氏の家族が、この記事を 「福島民報」で目にして野内与吉氏の消息が明らかになる。
昭和48年(1968)野内氏は 大玉村に帰郷して家族と対面
玉井人ひろたさんがお会いしたというのは、この時かなと想像する。