山田村の散策振り返り⑩~山王道筋沿いの鹿島神社⑥
2015年 06月 20日
陸奥国には100座あって、そのうち信夫の里には5座あって、これを信夫5座というのだそうだ。その5座が、鹿島神社 東屋国神社 黒沼神社 白和瀬神社・東屋沼神との事。ただ、神社には廃絶や移転、祭神の変更などがついてまわるので、その考証は難しいのだとか。
「ふくしまの歴史」では、その中の鹿島神社も、鳥谷野、岡本、小田、水原にあるが、どれがもともとの鹿島神社かは分からないとし、栗田寛の「神祇志料」では「鳥谷野村の鹿島森にあり」としていることが紹介される。
それでも、それぞれの地域の神社の地区民は、それぞれに本家意識が強い。それで、神社の由緒では延喜式内社である主張と絡めた紹介になるようなのだ。
重々しく歴史の考証をしたいわけではなく、気楽に散歩をしたいだけなので、その主張部分を外させていただいて解説を読む事にしている。
小倉鹿島神社でもそうさせていただいたところで、気になったことの一つが伊達氏と鹿島神社とのかかわりだ。
その視点でネットを検索して遊んでいる中で見つけたのが、「桑折 雅嗣氏」のホームページにあった伊達、信夫の里の伊達氏の祖の話。
伊達氏は、鎌倉時代に誕生するのだが、それ以前は伊佐氏と称した常陸の国の武士だったとのこと。現在の下館近辺にあった伊佐荘、中村郷を領していたとのことだ。
常陸時代の伊佐氏に詳しい中世常総名家譜という資料があるそうで、その資料には次のように紹介されるとのこと。
この伊佐氏の祖は、藤原山陰に発し、藤原鎌足の8世の孫、その子に越前守安親があり、為盛、定任、実宗と続くのだそうだが、この実宗氏が伊佐氏の祖とのことだ。
実宗氏は康和元年(1099)陸奥守となり鎮守府将軍を兼ねる。
天永2年(1111)に常陸守となるが、この年、臨時課役が課され疲弊していたことから大蔵卿の大江匡房に哀訴し助かったとある。
そして、この実宗氏が永久2年(1114)に鹿島神宮を造営したとも紹介されるとのことだ。
ここからは、勝手な想像だ。
小倉舘は、伊達氏の重臣の舘であり、そこに鎮座するのが小倉鹿島神社とみれば、この神社が伊達氏の故郷常陸の鹿島神社と直接的に権威付けの交渉があったとしてもおかしいことではなさそうにも思うのだが、どうだろうか。
ただ、これは単なる他所者の散歩人の勝手な想像であることを強調しておきたい。というのは、これって「一統誌」の記載にかかわる大胆すぎる想像のようになっているようだからだ。