再び仙台散歩31~政岡墓所周辺から榴岡公園へ⑪
2015年 04月 26日
しかし、躑躅岡天満宮への参道を上から覗くと、ここは岡の上だったなぁと再認識できる。
下に見える道筋は、「仙台城下絵図」で、水路とともに描かれる東十番丁の道筋らしい。絵図を見ただけではこの道筋がカーブを描く理由が分からないのだが、こうして覗きこむことで、天満宮の境内が岡になっているのだが、その外周に沿っているということが分かる。
絵図には、この参道の左手の道を挟んだ南側に、先に「再び仙台散歩⑳~政岡墓所から周辺の寺町を歩く③」でふれた「金勝寺」が描かれる。この寺が東十番町天神下にあったということだったので、辻褄が合う。
この寺では、地元で「叢塚(くさむらづか)」と呼ぶ石塔についてふれたが、これが、天保7年(1836)の飢饉の際の供養塔ということだった。
この天明の飢饉の時に、この寺では飢餓者のためにお粥小屋が儲けられたとのことだが、それが行われていたのはこの地だったのだろう。
更に、絵図ではその道筋の西側、水路の南側の東七・八・九番丁の屋敷は人の住まない明屋敷であることが描かれるのだが、これも宝暦の飢饉につぐ天明の飢饉による衰退によるものなのだそうだ。
今回は眺めただけだったが、この道筋まで降りて歩いてみれば実感が深まったかも知れないなと思う。
「みやぎの土地改良年表」の「宮城県の歴史」の項より、仙台藩の飢饉に関する事項を中心に抜粋させていただく。
http://www.pref.miyagi.jp/uploaded/attachment/110769.pdf#search='%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E9%87%8E+%E5%A4%A9%E6%98%8E%E3%81%AE%E9%A3%A2%E9%A5%89'
宝暦5年(1755 ) ・ 宝暦大飢饉で仙台藩餓死者3万人余とも
・ 千坂半右衛門、救済事業で志戸田堰潜穴
明和8年 (1771) ・ 江合川右京江堰、京都右京太夫指導造営
天明2年 (1782) ・ 天明大飢饉で仙台藩餓死者30万人とも
・ 田川永志田堰(二ツ石堰)改良(1783-93)
※ 寛政の改革(1787-93、老中松平定信)
天明3年 (1783) ・ 浅間山大噴火降灰で仙台藩大飢饉拡
寛政9年 (1797) ・ 仙北十郡大百姓一揆(1797、義民清三郎)
天明3年 (1783)~天保2年(1831)までの各種用水路等改修工事が行われるが略す。
※・天保の改革(1830-43、老中水野忠邦)
天保3年(1832) ・ 天保大飢饉で仙台藩餓死者は数万人
天保4年(1833) ・ 仙台藩、天保郷帳、99万石と幕府に報告
<以降各種用水路等改修工事が行われるが略す>
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先に整理した小田原天満宮別当寺の天照寺についての読み取り違いがあった。13.「国分ものがたり」(藤原相之助。昭和15「仙台郷土研究」第10 巻第10 号の内)として掲げられた資料で、以下のように解釈すべきだった。修正する。
文治〔1185 ~90〕以前より国分荘の鎮守として祭ってあった天神社は、居館の建つ現東照宮の乾〔いぬい〕(後の一本松)にあったようだ。その朱が遠くから見えるので、赤塔天神と呼ばれていたという。別当寺の大照寺(後に天照寺)があったのは、その赤塔天神丘下と解釈すべきだった。
ここでは、もと国分家の居館跡だった現東照宮の場所に天神社を再興するのは、政宗公だとする。この時点で、天神の霊像も、菅神真筆の宝物も失われて、ただ内陣の御厨司だけがあったという。
堤町天神に納められる天神像は、寛政〔1789 ~ 1801〕中島田丹右衛門といふ人が国分時代の赤塔天神の蹟から発掘して堤町の寺に納められたものだとも。
なお、別当寺だが、天照寺の廃寺後、修験の光善院が天神別当となったのだとか。初めは台の原長命坂、後には今の小松島の辺に移り南光坊と号したとのこと。
弓が得意で、政宗公の時に、毎年五百筋の南光弦を献じることで、普請夫丸諸役を任せられるようになったとのこと。