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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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再び仙台散歩29~政岡墓所周辺から榴岡公園へ⑨

 現在の躑躅岡天満宮に建つ案内板は、その建立について「建立 寛文7年(1667)7月25日」とし、多くを語らない。それで、いろいろな情報をもとに、現在の東照宮より御還座した経緯を確認したところだった。
 しかし、古い案内板では、現東照宮の地より御還座した経緯や建物についても説明されていたらしい。
再び仙台散歩29~政岡墓所周辺から榴岡公園へ⑨_a0087378_16491728.jpg 建物については、「寛文7年(1667)に建てられた榴岡天満宮は、伊達家の崇敬社でもあるので、本殿や拝殿だけでなく山門や神楽殿など多くの建物が造営されて「照星閣」と称されていた」とし、それが、寛政7年(1795)2月25日に落雷による不慮の火災は、唐門を残して、本殿・拝殿・楼門・神楽殿・鳥居などが焼失したとしたようだ。
 現在の社殿はその頃に再建されたものだというから、この拝殿もそうなのだろう。
 松尾芭蕉がここを訪れるのは、元禄2年(1689)5月7日なので、焼ける前の建物群だったろうと思われる。
 「ここ玉田よこ野つつじが岡はあせび咲くころ也ここに天神の御社など拜て其日はくれぬ」

 現東照宮の地より御還座した経緯については、以下のように解説されていたようだ。
 「慶安3年東照宮の創建と共に東隣に移動し、寛文7年7月25日この地に遷宮された」
 慶安3年(1650)東照宮造営の時点で本社が躑躅岡に遷したとの説明もみるが、「要説宮城の郷土誌「続」【仙台市民図書館編(編者 種部金蔵)】の「 天満宮の榴岡への移遷について」の項で、多くの論拠をあげて、案内板の説明が正しい事を解説している。
 要は、榴岡一帯の開発は、仙台城下拡張の第3 次(最終)事業として、延宝〔1673 ~ 81〕年間に入ってからのことで、慶安3年の東照宮の創建時点での移転は考えられないとした。
 その根拠資料として挙げた中に、この別当寺についてふれているものもある。
 その別当寺は大照寺(後に天照寺)という寺で、丘下にあったのだそうだ。近年その寺址から碑石が発掘されたとも。国分家衰亡の後、赤塔天神も衰へ、別当寺は退転したのだとか。

 案内板の説明では、躑躅岡天満宮の前身である小田原天満宮が現東照宮の地に還座された経緯についても解説していたようだ。
 「藤原基衡の臣佐藤小太郎基春が国分荘の領主となったとき、柴田郡川内邑(今の川崎町川内)から小俵邑(今の小田原)玉手崎に遷した神社であったが、……」
 「藤原基衡の臣佐藤小太郎基春」は、福島では「湯の庄司」として有名な「大鳥城主佐藤元治」公と同人物でいいのかな。
 ただ、藤原氏がかかわる佐藤氏の時代の還座はいいとして、次の国分氏の時代があって、それから伊達氏がかかわるとの見え方にならないと、素人の散策人には分かりずらい。

 宮城県神社庁のページの「躑躅岡天満宮」の項では、その後について次のように解説する。
 「後に、藩祖伊達政宗公が仙台城を造営するとき、当社の社木(境内地にあった樹木)を用財として切り取った為、その報祭に慶長16年(1611)に新たに丹塗りの御社殿を造営したが、慶安3年(1650)徳川幕府の命令により東照宮建立に際し、その境内地東側に御遷座がなされた。」

 宮城県神社庁のページで、「川内村天満宮」も確認できる。
 「天暦2年(948)平安3月川内村の一老翁霊夢に感じて勧請すと伝えられる。又、天満宮は往古山城の国竹内沼崎山に御鎮座あり−を圓融帝の天暦2年(974)春奥州宇多郡八幡崎に勧請其の後、柴田郡川内邑(今北野原と呼ぶ)に遷座したも伝いられてゐる。
 仙台榴ヶ岡の天神社は本社の分霊を荘司基治が瑞夢に感じて国分荘小田原村田手島(今宮町東照宮附近)に移したのに創る」
by shingen1948 | 2015-04-23 16:57 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)