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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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再び仙台散歩⑳~政岡墓所から周辺の寺町を歩く③

再び仙台散歩⑳~政岡墓所から周辺の寺町を歩く③_a0087378_5225998.jpg 次に写真に写っていたのは、真照山「栄明寺」。
 位置的には政岡墓所のすぐ南側で、右手奥には「仙台サンプラザ」も写り込んでいる。ほんの少しだけ寺町の雰囲気を味わって戻ってきたという感じだ。
 この寺、寛永2年(1625)に開山。浄土真宗大谷派。京都東本願寺の末寺とのこと。
再び仙台散歩⑳~政岡墓所から周辺の寺町を歩く③_a0087378_5233245.jpg その次に写っていたのが「栄明寺」の直ぐ右手の曹洞宗松風山「金勝寺」。連坊の瑞雲寺の末寺で、永正元年(1504)南町に開山とのことだ。仙台城下町割りの際に東十番町天神下に移り、昭和53年(1978)区画整理事業によって当地に移転新築されたとのこと。
 散歩中に昭和53年(1978)の移転新築を感じさせなかったのは、白木造りの山門の両側には、木造の仁王(二王)像がにらみをきかせていたこと。
 ここは、仙台三十三観音第13番札所でもあるようだ。右手の石塔が、それを案内している。
 「聖観世音菩薩」で、御詠歌は「うき雲のかかればみねの松風に ふきはらはせていづる月かげ まつかぜのおとにみのりのこえそえて なほすみわたるかねかづの寺」とのこと。ただ、境内本堂前にあるお堂は「金毘羅堂」のようだが、……。
再び仙台散歩⑳~政岡墓所から周辺の寺町を歩く③_a0087378_5252770.jpg その「金毘羅堂」の東側(写真では左手奥)に写っている石塔が、天保7年(1836)の飢饉の際の供養塔なのだとか。
 これを地元では「叢塚(くさむらづか)」と呼ぶようだ。宮城野原が天明の飢饉の時、住民がほとんど死んでしまい、無人になったという。その供養塔。
 この飢饉のときには、この寺では飢餓者のためにお粥小屋が儲けられたのだそうだ。それは、この寺が東十番町天神下にあった時代かな。

 供養塔が2基並んでいるが、元々は飢饉で亡くなった人を葬った塚に建てられていたようなので、二つの「塚」に建てられた供養塔碑が、ここに並べられているということかと思う。
 この時に葬られた死者は徳泉寺の2つの塚と金勝寺の2つの塚で2700人との記録があるそうなので、単純計算で一つの塚には675人が眠っているということ。
 ならば、ここの供養塔2基で1350人分の霊を慰めているという想像を絶する悲惨な状況を表現している風景ということになるらしい。
 現在、宮城野大通りの地下部は仙石線が走るが、それら数カ所の塚を通したようで、工事中に大量の人骨がでたという情報も……。   
 なお、仙台藩全体では、この年の凶作での餓死者は三十万人だったのだとか。

 「東秀院」の飢饉供養塔についてはさらりとふれたが、こちらは天保4年(1784)建立なので、その3年前。
 これを機会に確認して見つけたこの時の飢饉供養情報としては、光寿院、河原町の桃源院、北山の大法寺にもこの時の供養塔があるようだ。こちらは仙台の三叢塚(くさむらづか)と呼ばれるのだとか。
 一過性の話ではなく、飢饉に苦しむ時代が続いたという事かな。

 次のポイントとして目ざしているのは、「榴ヶ岡公園」経由で、「躑躅岡釈迦堂」の旧地だ。意識としては「政岡墓所」つながり。
by shingen1948 | 2015-04-12 05:30 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)