再び仙台散歩~「藤村広場」
2015年 03月 16日
今回の散歩はつつじヶ丘公園付近で、藤村広場に立ち寄ったのはその帰りだが、「仙台散歩」と宮城野区を中心とした「再び仙台散歩」のつながり上、こちらを先に整理する。
藤村氏は東京で明治女学校高等科の教師をしていたが、教え子の佐藤輔子を愛したことから明治26年22歳で学校を退職。その翌年(明治27年)には、友人北村透谷が芝公園の自宅で自殺。その次の年(明治28年)には、郷里馬籠の生家が火災のため焼失。
そういった衝撃的な事柄が続いた後、藤村氏は仙台にやって来る。
その最初の宿泊地は仙台駅前の「針久旅館」で、そこから池雪堂布施淡氏の家に身を寄せる。布施淡氏が支倉町の田代家隠宅に移ると藤村氏も一緒にそちらに移動する。これが湯野愛宕山の「飯坂散歩」とつながる。
藤村氏は、その後名掛丁の下宿三浦屋に移り、この一室で「若菜集」の大部分が書かれたのだという。
この藤村広場は、その名掛丁の下宿三浦屋近くにつくられた公園のようだ。そこに、「日本近代詩発祥の地」の石碑が建つ。
「日本近代詩発祥の地」右手には、「島崎藤村と名掛丁」と題した解説の案内板が建つ。
名掛丁藤村下宿「三浦屋」跡
ここ三浦屋にありて
若き島崎藤村
日本近代詩の夜明けをつげる
『若菜集』を生む
島崎藤村と名掛丁
島崎藤村が東北学院の教師として来仙したのは、明治29年24歳の時でした。木曽馬籠の生家の没落、明治女学校での教え子との失恋、そして親友、北村透谷の自殺など、東京での悩み多き生活から逃れるように仙台にやってきました。孤独と憂いを抱いて行き着いた仙台の風土は、藤村の心の傷を癒やし、苦境から立ち直らせました。そして藤村の口からうたいだされた詩は、日本近代史の先駆けとなった「若菜集」として出版されました。
その数々の詩作を生み出す舞台となったのが名掛丁の下宿屋「三浦屋」だったのです。
名掛丁での生活を藤村は次のように語っています。仙台の名陰町というところに三浦屋といふ古い旅人宿と下宿屋を兼ねた宿がありました。その裏二階の静かなところが一年間の私の隠れ家でした。「若菜集」にある詩の大部分はあの二階で書いたものです。宿屋の隣に石屋がありまして、私がその石屋との競争で朝早く起きて机に向かった事を覚えて居ます。あの裏二階へは遠く荒浜の方から海のなる音がよく聞こえて来ました。「若菜集」にある数々の旅情の詩は、あの海の音を聞きながら書いたものです。※ 藤村は「名掛丁」を「名陰町」と書いています。
「市井にありて」より
2005年8月29日
名掛丁東名会