仙台散歩⑤~芭蕉が辻へ~「ハピナ名掛丁」アーケード街
2015年 03月 02日
仙台駅前から芭蕉が辻へ続く道筋は、青葉通りの一本北側の道筋である。その見当で眺めると「ハピナ名掛丁」というアーケード街がその道筋らしい事は直ぐに分かった。
このアーケード街なら何度も歩いている。ただ、芭蕉が辻へ続く道筋だと意識していなかっただけだ。その商店街名から、ここが「名掛丁」の道筋の続きであることも分かる。(写真はtownphoto.netより)
「machinaviPRESS仙台」に、「名掛丁」は明治20年(1887)に鉄道開通で町内が二分されて、駅から西が繁華街になったとの紹介情報も見える。
土曜日のせいか飲食店はどこも混んでいて、並んでまで食べると言う気分でもない。こじゃれた店に入る気分でもないこともあって飲み屋街の路地に入り込んだ。南側の路地に抜けたところに、普通の東京ラーメンの食堂があったので、そこで昼食にした。後で「machinaviPRESS仙台」のページを確かめたら、ここが「政岡通り」と紹介されていた。伊達藩のお家騒動で、我が子を犠牲にして、伊達藩に忠義を尽くした「政岡」がその名の由来なのだとか。末無掃部丁もそうだったが、ここもまた「伊達藩のお家騒動」にかかわる路地だった。路地に入るれば「伊達藩のお家騒動」の影が漂うということか。
このページに「名掛丁」は藩制時代に勇敢な侍で構成された御名懸組の組士屋敷が置かれたとの由来が説明されるが、「仙台城下の町名由来と町割」には、もうちょっと詳しく以下のように紹介されている。
仙台藩が、家臣を門閥によって七等に分けていた事は知っていた。先の上遠野氏は、その中の準一家であった。
「名掛丁」がかかわるのは、その下の「大藩士」、「組氏」、「卒」の階級の「組氏」の階級のようだ。その「組氏」が、更に11の階級にされていて、その中の一つの役職が「御名懸」なのだとか。記録では百十一家族が、この役職だったという。
伊達氏が特に名を呼び掛けて取り立てた者の子孫が「名懸衆」であり、その家族を新伝場丁の東端から東七番丁車町に配置して「御名懸丁」としたことが「名掛丁」の由来なのだとか。
なお、先にふれなかったが、東六番丁小と空掘丁の間が仙台市のホームページでは東六番丁とあるが、新名掛丁なそうで、一の関の伊達兵部宗勝の家士たちが居たところなのだとか。