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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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三角山④―観音山③―山口庄右衛門重久碑②

三角山④―観音山③―山口庄右衛門重久碑②_a0087378_7101387.jpg この右側に写る道筋が、三角山の観音山側の登り口で、左側の道筋に沿った所に写る石碑が、山口庄右衛門重久碑(頌徳碑)だ。
その山口庄右衛門重久碑(頌徳碑) 前半の山口庄右衛門重久氏を紹介される部分までを確認したところだった。
 次に、現井野目村に住した山口庄右衛門重久氏が井野目堰開拓に関わった事の紹介が続く。
 荘ハ佐波野原大笹生原入江野原ノ間ニ在リ水利ニ乏シ民之ヲ憂フ重久乃チ開発ニ志シ領主綱勝公ニ請ヒ正保四年九月充許ヲ得隣近邑ヲ督シ荒蕪ヲ拓キ渠堰ヲ設ケ数年化シテ肥沃トナリ始メ井野目村ノ称アリ重久更ニ私貨ヲ投シ其渠ヲ延長シテ共計千八百七十六間ニ及ビ且大小磐石ヲ鑿(うが?)チ長短洞門ヲ開ク者二百幵(?)九間
 小川ノ水ヲ引キ以テ渠ニ通ス石田ヨリ久地木入江野ヲ経テ平塚ニ至ル田園百五十餘町ニ灌漑ス此間焦思労身十有三年備ニ辛酸ヲ嘗メ以テ竣ヲ告ク之ヲ井野目堰ト曰フ實ニ萬治二年三月也
 井野目村が、井野目堰開発以前は、佐場野原、大笹生原、入野江原の3か村が開発された残りの耕作されない原野だったことが分かる。 
 正保4年(1647)2月に山口庄右衛門重久氏が藩主上杉綱勝公に、入野江原を中心とした原野の新田開発を申し出て、同年9月その許可をもらい、小川の水を通して開墾する事によって開かれた村という概要が読み取れる。

 前回に比べ碑文の不明箇所が少ないのは、碑に刻まれた文字が鮮明で、資料で読み取ったことと刻まれた碑文を見比べ修正したからだ。
 前回部分は、次のように修正している。
 頌徳碑
 山口庄右衛門重久碑銘  貴族院議員従2位勲三等子爵 山口弘達繁額

 山口重久ハ重嗣ノ孫重敏ノ子祖父ノ通称ヲ襲キ庄右衛門ト曰フ慶長十五年信夫郡井野目ノ荘ニ生ル其先大内氏百済國琳聖太子ハ其宗タリ太子 推古帝ノ十九年年来朝帰化ス子孫防長諸州ヲ治スル凡九百年三十一代任世尾州星﨑ニ移リ十八代弘世ノ防州山口ニ城キ居リシニ縁リ山口氏ヲ称ス教仲國重春重秋ヲ経テ重嗣ニ至リ慶長ノ初来テ上杉家ニ仕ヘ此荘ニ住ス

by shingen1948 | 2014-10-10 07:12 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)