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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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のりしろ散歩~愛宕山泉福寺②

 愛宕山泉福寺は現存しない。先に記したように、「野田村郷土史」では、愛宕山泉福寺のその後について、「笹木野町の大火に焼失したので福島市真淨院に合寺してしまった」と紹介する。
 その位置想像は何度か変わったが、現時点では現愛宕神社を含む笹木野宿並みの範囲と想像している。
のりしろ散歩~愛宕山泉福寺②_a0087378_5504257.jpg これは、笹木野宿から現愛宕神社の追分を右折して直ぐの地点から現愛宕神社の後ろを見ている。赤い屋根がその現愛宕神社だが、この辺りが愛宕山泉福寺との想像だ。

 先に「小字笹木野町」内にこだわったのは、「野田村郷土史」の「万治2年下野寺村が分村した際に、この寺を笹木野町の愛宕山に移し、愛宕山泉福寺と改めた」の「笹木野町の愛宕山に移し」の部分だ。ただ、確認していくと、「野田村郷土史」の地区の概念は小字にこだわっていないように思われてきた。その文化圏というアバウトな範囲を指すことが多いように思えた。ならば、「小字町続」も含めた範囲でもよさそうに思ったところに、「福島市史」では、「小字町続」と紹介しているのを見たということだ。
 市史では、笹木野宿北端「小字町尻」の仏母寺が、笹木野宿開設より古い事を紹介した後、次のように紹介する。
 南端にも泉学院・泉福寺があった。この寺はもと下野寺の薬師堂(または鶴巻)にあった古寺で、万治2年に町続きに移されたといわれる。愛宕堂もこれと並んで建てられてあった。
  「愛宕堂もこれと並んで建てられてあった」とあるが、「幕末頃の両上野寺・下野寺(本郷・分郷)・両笹木野(御領・私領)・八島田要図」を眺めれば、現愛宕神社の位置に「泉福寺」がプロットされる。「愛宕神社御縁起」にも「当社(愛宕神社)と隣接した福島真淨院○泉福寺」とあった。
 これらを考慮すれば、現愛宕神社を含む笹木野宿並みの範囲の中に泉福寺があったと推定しているのだろうと想像されたということだ。
 「愛宕神社御縁起」からも、愛宕山泉福寺と愛宕権現堂の関係性の強さも読み取れる。愛宕山泉福寺が、愛宕権現堂の別当寺という関係性なのかもしれないとも思う。

 「笹木野町の大火に焼失したので福島市真淨院に合寺してしまった」と紹介されるその消滅だが、その立場上、愛宕権現の愛宕神社改変にともなう選択の影響の可能性もありそうにも思えてくる。
 「笹木野宿愛宕堂」で記したように、西の国々の方々の確立した宗教観に基づく慶応4年(1868年)の神仏分離令による廃仏毀釈で、修験道に基づく愛宕権現が廃される。明治3年(1870年)には、大元である白雲寺も廃寺に追い込まれて愛宕神社に強制的に改組されるとのことだ。当然、笹木野宿の愛宕権現もまた、強制的に愛宕神社に改組されたとのことなのだろうと想像した。
 このことと関連付ければ、愛宕権現が廃されて愛宕神社に改組された結果として、愛宕山泉福寺は別当寺としての機能を失ったことも影響したとの想像もできる。
 ただ、寺本来の機能として必要な部分が残るわけで、それが真淨院に引き継がれているという見え方もできそうに思うのだが、これは他所者の邪推的な読み取りかもしれないな。
by shingen1948 | 2014-05-30 05:55 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)