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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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のりしろ散歩~野寺情報を求めて追分を南へ進む ⑦ 野寺と上野寺情報

 米沢街道を外れて、南に進んで野寺情報を求めて散策し、確認してはまた散策するということを繰り返している。
 「野田村郷土史」で、野田村の概要を次のように説明するわけだが、その中の「以前は野寺村といい、後に上野寺村と下野寺村に分かれ」るその野寺と上野寺にかかわる辺りを歩いている。
 当村(野田村)は、昔、い立て郡、杉ノ妻荘、信夫郡などと称せられた郡内の村であって、以前は野寺村といい、後に上野寺村と下野寺村に分かれ、その下野寺村から笹木野村が分村し、更に笹木野村から、新発田藩領になった分を、新笹木野村ともいった。 
 明治の聖代となり、市町村制施行に辺り、以上3か村と八島田村を合わせて今日の野田村となったのである。
 その上野寺の寺である稲荷山大林寺旧地だが、とりあえず「歴史地図」が「このあたりにもと大林寺があったという」とプロットされるのは、東北自動車道と農道の交点附近のようだ。
のりしろ散歩~野寺情報を求めて追分を南へ進む ⑦ 野寺と上野寺情報_a0087378_1782870.jpg 他所者の散策人としては、この地点が寺の旧地なら、「釈迦堂」は元々の位置としてもよさそうにも思えてくるが、とりあえずは案内にあるように、このあたりから移動したようにイメージしておく。
 ここに向かう途中、散歩している方に「上野寺稲荷坊屋敷」の位置を尋ねてみたが、「坊屋敷」自体知らないという。

 上野寺の寺地がイメージされてくると、「歴史地図」が「野寺発祥の地」とした竹ノ内近くの寺とこの上野寺の寺とが、地域的には連続しているようにも思えてくる。その野寺にかかわる「野田村郷土史」の以下の情報に、最近気付いた。
 平安の御代となり、坂の上の田村麻呂が蝦夷征伐の頃、奥州信夫郡杉の目荘、野田村があったと伝えられる。これ今の字竹ノ内地内に千寿院という寺があり、野葦の繁る広漠たる原野の中に、寺があることから、野寺という名をつけられたといわれる。
 此の寺は後に衰退して廃寺となり、修験者がいた事もあるが天明3年遂に空院となってしまった。(中略)この寺の跡から明治時代になって、石鎗や矢の根石を発掘した事もある。(5/4石蹌としたところを石鎗に修正)
 先に「野寺発祥の地」は「のりしろ散歩~野寺情報を求めて追分を南へ進む」の中で、「古跡 淀内古寺跡」として整理しているが、それにこの情報を加えておきたい。
 「なお、矢の根石は石鏃(せきぞく)であることの確認はできたが、「石蹌」が分からない。」としたが、水熊さんのご指摘を受けて確認すると、「鎗」を「蹌」と誤記したもので、その音読みは同じ「ショウ、ソウ」だが、訓読みは「やり」で、解決。
 老眼とあわてものの性格が混乱の原因かな。
Commented by 水熊 at 2014-05-04 00:12 x
1997年復刻版の『野田村郷土史』は、「この寺〔千寿院〕の跡から明治年代になって、石鎗や、矢の根石を発掘したこともある」とあります。
石鎗=石槍(いしやり)じゃないですかね。
Commented by shingen1948 at 2014-05-04 06:19
そうですね。鎗を誤記してしまいました。老眼のせいだと言い訳しておきます。修正しました。
ありがとうございました。
by shingen1948 | 2014-05-02 17:10 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(2)