のりしろ散歩~米沢街道附近~「宝笠山 円光寺」②
2014年 03月 02日
その小さな単位の行政区の中心地にかかわる資料は、大概見つかる。その行政区の周辺部でも詳しい紹介が見つかる場合もあるが、それはその地域に詳しい方の感じ方によるのであって、その紹介はさじ加減に左右されることが多いように思う。
散歩を楽しむ者には、境界線附近の現地に線は引かれていないが、史料上はみえない線を感じることが多いという状況だ。
最近、その境界線附近を確認していて面白いと感じたことがある。それが、境界線を挟んだ反対側の行政区に詳しい資料がみつかることがあるということ。その資料と目当てとする行政区の資料とを併せて見ると、今まで見えていなかった事に気づく事があるということだ。
そんな気分で散歩していたら、円光寺の案内板を目にしたということで、「のりしろ散歩」と名づけて、境界線を挟んだ資料に目を通しながら散歩を楽しんでみようとしている。
その円光寺だが、案内板の開基についての説明では、項目的に記載される。それが「森合郷土史」では具体的に確認できる。
それによると、開基者の高橋茂右衛門氏は、この地域の名主であることが分かる。この方が早世なされたので、その家族が慈恩寺から祖珍氏を迎えてこの寺を建てられたということのようなのだ。森合の正眼寺開山益伝氏とは兄弟弟子という伝にもふれる。
「『慈恩寺』から」ということには、地域の人々の米沢とのかかわり意識をイメージしたり、その慈恩寺のこの時代の事情を想像したりしてしまうところもあるかなとも思うが、今回は詳しくはふれない。
「宝笠山 円光寺沿革」案内板の説明
宗派 臨済宗 妙心寺派本堂西側の北端に案内にある「開基高橋家の代々の墓」があり、次に「歴代和尚の墓」があるのは直ぐに分かる。「筆弟中による高橋茂光の碑(明治12年建立)、二十三夜塔(文化15年)、青面金剛碑、萬霊供養塔、馬頭尊、百万編地蔵尊、出羽三山、巳待供養塔」は、観音堂の右手に確認できる。
開創 寛永元年(1624)
本尊 釈迦牟尼仏
開山 昌翁祖珍和尚
開基 高橋茂右衛門
山内には、新西国30番札所、聖観世音菩薩を祀る観音堂があり、中に目地蔵様、不道明王、弘法大師、養蚕堂神等が祀られており、天井には福島藩御用絵師佐原玉山弐信筆の龍が画かれている。
境内には、旧柴田藩(現新潟県新発田市)八島田陣屋代官婦人等の墓、開基高橋家の代々の墓、歴代和尚の墓
筆弟中による高橋茂光の碑(明治12年建立)、二十三夜塔(文化15年)、青面金剛碑、萬霊供養塔、馬頭尊、百万編地蔵尊、出羽三山、巳待供養塔が祀られている。
参道入り口には、三界萬霊供養塔、地蔵尊等数体が祀られている。。
ただ、肝心の旧柴田藩(現新潟県新発田市)八島田陣屋代官婦人等の墓は今のところ分かっていない。
かかわるかどうかは分からないが、「野田村郷土史」の「八島田村」の項に「歴代々官の氏名は詳らかでないが、文政7年には高山吉右衛門、天保11年には中村武八郎等が古文書に残っている」とある。
また、案内板にある開創寛永元年(1624)は、この事態が起きた年を直接的に指すものか、円光禅寺が新発田藩の菩提寺とされたことから、溝口氏新発田藩の陣屋が八島田の本庄町に置かれた年をもって開創年としたのかも分かっていない。
その後、10月4日まで、米沢藩兵が八島田陣屋に駐在したといわれるとのこと。ただ、米沢藩兵が立ち去った後には、西軍が繰りこんで同様の状態のはずではありますよね。
それよりも気になっているのが、福島市寺院名鑑も、案内板も「柴田藩」であること。八島田の「しばたはん」=「新発田藩」でいいのかなとも、……。他所者にとっての柴田藩は、白鳥事件の情報が流れる宮城県船岡の柴田藩もイメージしますよね。
西軍と伊達藩のかかわりで廃藩になっているようですが、可能性というだけなら、そちらもありそうだとも、……。
「新発田藩」ですよね。
学ぶ意欲すごいですね。当方は、学ぶ根気の方に不安があって、座学的な学びに手を出せません。
当方も、新発田藩の情報から八島田陣屋にかかわる情報が拾えないか試みてはいますが、難しいようですよね。