のりしろ散歩~米沢街道附近~「宝笠山 円光寺」
2014年 02月 28日
説明の中に「旧柴田藩(現新潟県新発田市)八島田陣屋代官婦人等の墓」が境内に祀られていると読み取れる。
「森合郷土史」の「宝笠山 円光寺」の項から、かかわりある解説を確認すると、以下のような説明がある。
寛政元年(1789)溝口氏新発田藩の陣屋が八島田の本庄町におかれ、円光禅寺は新発田藩の菩提寺とされました。陣屋に詰めた代官の家族の墓なども境内に残されています。その後、戊辰戦争で敗れた新発田藩の影響を受けてか、一時期荒廃していたようですが、明治に入り加藤家など檀家の尽力で復興されました。昭和4年(1929)の「福島都市計画区域図」によれば、ここは野田村であり、八島田陣屋かかわりということなら「野田村郷土史」に詳しい解説がないかなとの思いで確認してみたが、こちらには紹介されていなかった。
※ 「福島都市計画区域図 昭和4年」
昭和4年(1929)7月18日、福島都市計画区域について内閣の認可が下りた際の文書に付属していた福島都市計画区域図。
原図サイズ:45cm×53cm
都市計画法(大正8年法律第36号)は、「都市の秩序ある発展を期する為其の交通、衛生、保安、経済等に関する重要施設の計画を執行するに適当なる法規を制定するの必要あり」として制定された。法の適用都市は、大正9年(1920年)の法施行とともに法の適用を受けた6大都市、大正12年勅令第276号による25都市、と順次拡大していく。同法第3条では、都市計画の決定は、同法適用都市のある道府県ごとに設けられる都市計画地方委員会の議を経て内務大臣が決定し内閣の認可を受けることが定められていた。
本庄氏とのかかわりで発展した地域を基盤にして新発田陣屋が、構築されているような感じでしょうかね。
今回は、「大河八重の桜」の時代に米沢藩が福島藩を叱咤激励するのに庭坂にやってきて、その米沢藩と福島藩に挟まれてしまった新発田陣屋がどうだったのかなというイメージもあって、米沢街道付近を散策してみようかなと思ったこともあります。