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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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2代目金子周助建立伝神社・仏堂⑩~奥玉神社と羽黒神社

 西在を歩いていたら、東の羽黒神社建立に対する西の奥玉神社建立という対峙的な捉え方が自然な感覚になってきた。この東の羽黒神社と西の奥玉神社という見え方は、街中の散策や信夫山の散歩では見えていないのだが、その感覚で見直すと、新たな見え方になってくることに気づく。その視点から整理する。

 信夫山は、古代から神が宿る神聖な山と崇められてきたという。中世には、神仏混合し修験僧修験の場として発展したという。その信夫三山の一つである羽黒山と称される一角に、羽黒神社が鎮座した。
 信夫の里の中心的な信仰的の拠点の一つとなっている。歴史代領主からも崇敬の対象となっていたという。
 その羽黒神社が弘化2年(1845)の完成で、この奥玉神社の完成が弘化4年(1847)だ。
 先行したのは羽黒神社の工事だが、長い工期のスパンで、奥玉神社建立と工事が重なっているのは明らかだ。少なくとも、4年の工期の重なりが確認できる。
2代目金子周助建立伝神社・仏堂⑩~奥玉神社と羽黒神社_a0087378_8332479.jpg
 「福島市史」の奥玉神社建立に関わって、その文意は金子幸吉氏が彫工に名を連ねるだけであることを記す意図だが、その後半に「周助は彫りの名手といわれていた。この周助が羽黒神社に劣らぬものと意気込んだ佐倉村の奥玉神社本殿の……」と記している。
 そして、この「華麗な大建築が出現したのに刺激されて西在地方民の強烈な信仰と工人達の熱意が、奥玉神社の細部まで彫りつくした建築となったものとみられる」と続く。
 つまり、「福島市史」は、少なくとも奥玉神社側には、東の羽黒神社に対抗する建立意図があったことを、その文意にちりばめているということだ。
 その先行する羽黒神社の工事期間中に、先代の初代金子周助氏が亡くなり、2代目が婿養子に入り(つまりは結婚があって)、羽黒神社の再建の仕事引き継ぎをするという事柄が重なっている。それでも、そこに奥玉神社建立が重なっているということだ。
 「信夫の太子様と仰がれる程の立派な宮大工」2代目金子周助氏が関わってもらいたいとの西在のこだわりに、金子周助氏が応えたという状況なのだろうと思う。

 「福島市史」では、「事実極めて両社の手法が酷似しているのは、同一の工人が参与したのみではなかろう」とする。東の羽黒神社を知らない者にとっては、西の奥玉神社は、消滅した東の羽黒神社を具体的にイメージさせる役割も担っているように思う。

 西の奥玉神社の整理には、この観点の他にもう一つの視点として、西在の村々の神社や仏堂の総社建立という意識にかかわる熱意とかかわる視点からの整理も必要かな。
by shingen1948 | 2014-02-02 08:34 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)