地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~第50話「いつの日も花は咲く」②

 赤十字社の思想を日本に伝えたのは、佐賀藩出身の佐野常民という人物だといわれているのだとか。
 佐野は明治10年(1877年)の西南戦争の際、赤十字をモデルにした博愛社という組織を立ち上げる。その博愛社が10年後の明治20年(1887年)5月に、日本赤十字社と名を改めて、総裁に有栖川宮熾仁親王、社長に佐野が就任したのだとか。
 磐梯山噴火が翌年の明治21年(1888)で、医療救護班を派遣して救護活動を展開される。元々、赤十字社の目的は、戦時における傷病者や捕虜の保護だが、この救護活動が、平時救護活動の世界的先駆けとなるという。
 そして、八重の入社は、その2年後の明治23年(1890)。

 公式的な組織の話はそういう事のようだが、会津で語り継がれるナイチンケールは瓜生岩子さんで、八重さんの影は薄い。
 岩子さんは、戊辰戦争時、戦乱の若松城下に出かけて負傷者の看護をしている。その時に、実際の行動として傷病者を敵見方なく看護しているようだ。
 会津藩側からは「敵軍を看護している」といわれ、新政府軍側からは「誰の許可を得たのだ」と非難を浴びたという。しかし、「けがの手当てをするのに誰の許可もいりませぬ」「けがをした者は皆同じ、国のために戦っているのです」と話したというのだ。
 このことが、土佐藩の参謀板垣退助の耳に伝わり、後には、明治天皇の皇后さまにも岩子さんの行動が伝わって面会することになったのだとか。
 ただ、岩子さんの会津なまりが強く、面会の際には、大山捨松さんの姉である操さんが会津弁の通訳をするほどだったのだとも。(別の見え方をすれば、大山婦人としての捨松さんの力も見えるとも……)

 地域限定の評価は、商家の娘という身分的な事と、看護活動自体が重要視されていなかった事があるのだろう。そういう意味では、八重さんが看護活動をする者にスポットライトをあてさせたということは、会津のナイチンケールにとっても意義深い事の一つかな。

 岩子さんは、小田付村(現在の喜多方市字北町)の油商若狭屋当主渡辺利左ェ門氏の娘で、文政12年(1829)2月15日母りえさんの実家である熱塩温泉(現在の山形屋)で生まれているらしい。9歳の時には父が病死し、その直後に家が焼失して、岩子さんらは、りえさんの実家である熱塩温泉で暮らしていたという。
 天保13年(1842)年には、叔母の家である会津藩医の山内春瓏氏宅に医師の見習いとして住み込み、春瓏氏とともに鶴ケ城へ出入りしていたという。
 弘化2年(1845)には、会津高田の佐瀬茂助氏と結婚。呉服商松葉屋を開いて、一男三女をもうけた。しかし、茂助氏は病死し、手代に店の金を持ち逃げされたこともあって店は潰れた。それで、元冶元年(1864)に母の実家の熱塩温泉に戻っているらしい。戊辰戦争が起きたのはそんな時だ。
 ※瓜生岩子さんの経歴部分は、「会津の華は凛として」をもとにしている。
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by shingen1948 | 2013-12-23 06:25 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)