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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~ 弟44話「襄の遺言」

 襄氏が、大学設立の資金集めのために欧米に向けて旅立つのは、明治17年(1884年)4月。ドラマでは、その8月にスイスのサンゴタール峠で心臓発作を起こして倒れてしまい、死を覚悟して八重さんと両親に遺書を送るようになる事情を描く。
 このときには、幸いにも持ち直して、翌明治18年(1885)年の末に帰国する。
 弟42話「襄と行く会津」にかかわって、八重さんと襄氏が会津を訪れた事を中心に整理したが、これが明治15年(1882)の出来事なので、それから2年後の話だ。この時に、襄氏が再び会津を訪れるコースにふれたが、それが明治19年(1886)の話なので、危機的状況を脱して帰国した次の年の話ということになる。
  この時に、「仙台東華学校」開校の下準備をして、更に次の年の明治20年(1887)には、八重さんと夫婦そろって「仙台東華学校」の開講式に出席しているが、ここに健康状態を重ね合わせてイメージすれば、かなりの強行スケジュールかな。ましてや、この時代の交通手段を確認すれば、鉄道路整備の少し前の時代でもあるのだ。先の弟43話「鹿鳴館の華」にかかわって整理した時には、健康状態をイメージしていなかったが、それも考慮すれば、北海道まで足を延ばしているのも、札幌で静養するということでもあったらしい。
 ただ、今の時代から考えれば、静養には程遠いかなりの強行軍のイメージではあるな。

 その翌年(明治21年)には、新年から心臓発作で倒れ、その5月には鎌倉で倒れているらしい。
 襄氏の行動を追って整理していくとたくましい行動力のイメージだが、ここに不整脈、心肥大、心不全などリウマチ熱の心臓合併症に苦しんでいる病歴を重ねてみると、相当に無理をしていることが伺える。
 八重さんは、この仙台から北海道への旅も、鎌倉から伊香保への療養の旅にも、共に行動するようだ。襄氏の夢の実現に共に行動しながら、その旅先を静養へつなげたいという心遣いだったという事らしい。

 ドラマの概要については、エキサイト「大河ドラマ 八重の桜」のページから、弟44話「襄の遺言」の粗筋をお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga52/story_44.html
 「襄の遺言」
 襄(オダギリジョー)は、同志社英学校を大学にするための資金繰りのため、八重(綾瀬はるか)が心配するなか、欧米に旅立った。留守を任された八重だったが、女学校の運営方針をめぐって米国人宣教師たちと口論になり、険悪な状態になる。すると、そこへスイスの襄から遺書が郵送されてくる。そして、覚馬(西島秀俊)の元には、斗南から青木栄二郎(永瀬匡)という書生が訪ねてきて住み込み始めるが、次第に時栄(谷村美月)に好意を寄せるようになる。

by shingen1948 | 2013-11-09 10:07 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)