吉倉→八木田散歩⑥
2013年 11月 01日
しかし、実際に歩いてみると、その形状が曖昧である上に、河床かなと思って歩いていると、その先が段丘の形状になっていたりしていて、この辺りの地形を統合的にイメージができたとは言い難い。
ただ、榎内の段丘を意識し、西高の南側のラインが河岸段丘というイメージを頭に置いて歩くと、感覚的には、2か所を定点としてイメージしたうえで、その間の地形の変化という捉え方になって、何となく分かったような気分にはなる。
これが、その西高の南側の段丘と思しきラインを東側から眺めている。水路に橋がかかっていて、その南側が墓地になっている。
この墓地に、「赤沢五輪塔」がプロットされる。そして、その段丘に「中世赤沢在家」がメモされる。
「ぐるっと吉井田」では、その「赤沢五輪塔」については、以下のように解説される。
「赤沢五輪塔(方木田字赤沢)」
福島西高南側の墓地内に建つ塔婆。五輪塔の脇の墓碑には寛永21年(1644)とあります。石が五つ、空・風・火・水・地輪と重なっています。
更に、半沢氏の「歴史地図」では、そこに「吉倉・仁井田・八木田にかけて弥生~古墳時代(奈良・平安)の遺物出土品が多い(1950年代土地改良工事中に大量の土師器群)」のメモが記される。
次の河岸段丘の確実な地点は、その呼称からして「小字白家」あたりだろうと思う。白家=バッケ=崖や坂下を著すのだと思う。そのラインを意識しても、そこから南側の旧河床・段丘のイメージするのは難しい。
ここから先は、「福島河川国道事務所阿武隈川水系阿武隈川上流浸水想定区域図」につないでイメージする。
http://www.thr.mlit.go.jp/fukushima/sinsui/map01/map01_06.html
荒川流域の浸水想定区域が、ここでくいとまるとするのは、ここでいう古川で、新川の改良工事に伴う事なのだと思うがよくは分からない。荒川流域は、別管理という事なのかもしれない。
なお、西高脇の段丘沿いの水路は、この新川につながる。この水路だが、整備前の小川は八木田の小字「芹川」の呼称とかかわりがあるのかなと勝手なイメージをするが、確証はない。