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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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阿弥陀寺大仏(蘆舎那仏)情報

 現況は、阿弥陀寺には大仏の痕跡は台座しかないが、「会津戊辰戦争」を確認していたら、その大仏(蘆舎那仏)が阿弥陀寺に安置された経緯にかかわるエピソードが紹介されているのをみつけた。
 その情報によると、この大仏は、元々飯盛山仁王門前にあったものだとか。今(平石弁蔵氏が「会津戊辰戦争」を著した頃=昭和4年より以前)から160年前の明和4年9月に、この大仏は飯盛山正宗寺に安置されたものだという。
 それを、会津開城の時、西軍の軍夫共が横浜の外人に高値で売ろうとして、乱暴にも悉皆(残らず、全部)解体して荷づくりをしたとのことだ。そこに、西軍の将校が来て、「神仏にまで手をつけるのはやめろ」と制止されて、そのままになっていたのだという。
阿弥陀寺大仏(蘆舎那仏)情報_a0087378_1801648.jpg
 それを、七日町の鍋吹業(なべふきぎょう)<屋号丸角>の主人谷彦左衛門が安く買い受けたのだが、頭手胴連座等離ればなれのまま2カ年程路傍の畑地に晒していたという。
 やがて、鍋に俯瞰(ふかん)しようとしたところ、その2.3日前から毎夜深更になると大仏が唸りだす騒ぎになったのだとか。それで、町内の者が大いに驚いて、至急会合を開いて相談をした結果、勿体ないのでこれを譲り受けることになり、不手際ながら之を継ぎ合わせたのが今(平石弁蔵氏が「会津戊辰戦争」を著した頃=昭和4年より以前)の大仏であると紹介する。
 「辰のまぼろし(柴五三郎編)」電子版の「戦死者総員の埋葬」に、その旧地にかかわる次の情報が。
 http://aidu.s293.xrea.com/modules/tinyd3/index.php?id=73
 
  かの露座の大仏は、明治4、5年頃、弁天山(飯盛山)下仁王門外左側正宗寺入口の上に西向にありけるを、町内有志者の移せるものなり。
 キーワードが、「飯盛山=弁天山」、「仁王門」、そして、「正宗寺」かな。
 まずは、「会津さざえ堂公式サイト」に、「正宗寺」にかかわる情報として、旧飯盛山正宗寺=飯盛家の現住居という位置情報が。
 次に、ウィキペディアでそのさざえ堂を確認すると、「会津さざえ堂」=「正宗寺の仏堂」という関係性かなと思える次の情報が。
 栄螺堂
 かつてこの地にあった正宗寺の仏堂として、江戸時代後期の寛政8年(1796年)(『新編会津風土記』による)に当時の住職であった郁堂(いくどう)が建立したものである。当時は阿弥陀如来を本尊とし、斜路には三十三観音像が安置されていたという。神仏混交の信仰形態をもっていた正宗寺は、明治初期の廃仏毀釈で廃寺となり、以後、栄螺堂は個人の所有となっている。(ウィキペディアより)
 更に、「仁王門」について確認しようとすると、「1700年には会津藩主松平正容によって、飯盛山周辺の580間が寄進され鳥居や仁王門、青銅の大仏も建立されました」とのことで、建立の経緯情報はあるのだが、今のところ、その位置情報が見つからない。
by shingen1948 | 2013-08-25 18:06 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)