八重の桜番外編~甲賀町郭門口跡を訪ねる
2013年 08月 21日
大手筋を通って城下に入る道筋を通れば、当然、甲賀町郭門口跡を通過する。大手筋を通って城下に入る方が主で、「甲賀町郭門口跡を訪ねる」のは、副次的なことかな。
その大手筋だが、自分の感覚では、神明通りの東側の一方通行の甲賀町通りの道筋が、その大手筋を通って城下に入る道筋で、甲賀町郭門口跡は、一ノ町の交差点を過ぎて、やや左カーブになるところの右側にみえる石垣。
これが、甲賀町郭門の石垣だ。残っているのは右側だけ。明治時代から昭和初期まで、この石垣の上に鶴ヶ城の鐘撞堂が移されていたことがあったらしい。「会津戊辰戦争」では、当時の現況をいくつかぼやいているのだが、そのぼやきの一つ。
ここに鐘撞堂があったことが、原風景になっている方もいらっしゃるだろうと思う。鐘撞堂の現況は、鶴ヶ城の元の位置に戻されているのだが、自分としては、今の風景が原風景に近い。
国指定史跡
昭和9年12月28日指定
平成5年10月29日追加指定
史跡 会津若松城跡
(甲賀町門口跡)
所在地 会津若松市栄町275番
この石垣は、郭外より若松城の郭内に入る門の石垣で、ここを境として内側を侍の屋敷とし、外側を町民の住居とした。
郭内と郭外の間には土塁が築かれ、外濠がめぐらされていた様子が今もしのばれる。
当時、城下にはこのような門が16カ所あり、特に、この甲賀町口は大手門として他の郭門より厳重な構えをとったとされている。
今回、「甲賀町門口跡」、「天寧寺土塁」、「三の丸堀跡」の3カ所が国指定史跡若松城跡として追加指定を受けたものである。
平成7年3月
会津若松市教育委員会