大河ドラマ視聴「八重の桜」~ 第30話「再起への道」
2013年 08月 03日
その縁の部分を確認すると、会津藩の砲術師範を務めていた山本家に、米沢藩士の内藤新一郎と蔵田熊之助が寄宿していて、内藤は、藩校教授だった川崎尚之助の弟子となっていたことが「米沢戊辰実記 会津部」に記されていたということだった。
米沢に戻るのが、明治元年(1868)8月23日の籠城戦の早朝、内藤らは会津の戦況を伝えるため、山本家で急いで朝食を済ませて出立している。
八重たち家族が、米沢の内藤新一郎の世話になるのは、明治3年12月から明治4年8月3日の八重たち家族が、京都の山本覚馬の世話となるため米沢を出立する間らしい。内藤が、そのことを米沢藩に報告するのが、明治4年2月ということのようだ。
内藤の当時の家禄は一人扶持四石であることから、当時の暮らしは相当厳しく、内藤家も八重ら5人も副業を行っていたと考えられるが、その詳細までは分かったはいないようだ。
ただ、ドラマで描かれたように、絹織物とかかわる可能性は高いと思われているらしい。
というのは、米沢は「米沢織」という絹織物産業があり、当時米沢藩士の多くの家で機織りが行われていたとのことだ。内藤家でも機織りをやっていた可能性があり、八重達も、会津若松では機織りをやっていたという事情もあっての推測のようだ。
鶴ヶ城開城から、米沢の内藤新一郎の世話になる明治3年12月の間は、八重消息情報のブランクがあるらしい。
確認すると、鶴ヶ城開城が、明治元年(1868)9月23日。
尚之助は、ほかの藩士とともに猪苗代の謹慎所へ移る。ドラマでは、八重は鶴ヶ城で解放されたように描かれるが、実際は猪苗代で解放されているらしい。
明治2年(1869)1月、尚之助は、他の会津藩士とともに東京へ連行される。そして、海路で斗南に行き、野辺地港に到着するのが、明治3年(1870)10月。
八重たち家族が米沢の内藤新一郎の世話になる明治3年12月。
その間のブランクだが、城内の老人と子ども、婦女子は、塩川に向かったとされ、病人284人は青木村送りになったとされる情報がある。その後、婦女子等は、代々奉公していた譜代の農夫の家に分散しているとのことだ。
これ等の事から、八重は解放後、母佐久等がいた塩川へ向かい、山本家譜代の農夫の家に母らと移ったと推定されたり、小田付の避難所で生活していたと推定されたりしているようだ。
明治4年(1871)覚馬の生存が分かって、八重達は、内藤家から京へ向かうのだが、この時に、尚之助とうらとの別離があるが、ここも情報のブランクがあるようだが、ドラマでは次回に描かれるらしい。
ドラマの概要については、エキサイト「大河ドラマ 八重の桜」のページから、第30話「再起への道」の粗筋をお借りする。
http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga52/nextsynopsis.html
「再起への道」
尚之助(長谷川博己)は捕虜として囚われ、八重(綾瀬はるか)たちは米沢藩の知人の家に身を寄せていた。食い扶持を稼ぐため反物の行商をする八重は、食が細く日に日にやせ衰えていく佐久(風吹ジュン)のことが気になって仕方ない。萱野権兵衛(柳沢慎吾)の斬首という犠牲によってお家断絶を免れた会津松平藩だったが、下北半島最北端のやせた土地・斗南(となみ)へ移されることになり、大蔵(玉山鉄二)が筆頭の大参事となる。開拓を指揮する開発頭取には尚之助を据え、八重にも一緒に斗南へ移住するよう勧める大蔵。しかし、八重はその誘いを断る。