大河ドラマ視聴「八重の桜」~第27話「包囲網を突破せよ」④
2013年 07月 14日
http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/higanshishi/shishi.html
この逸話に関する事については、次のように解説される。
明治元年(1868)8月26日、山川大蔵隊は、西軍の包囲の厳重な会津若松城への入城を試みた。それに先んじて、山川は小松村村老の大竹重左衛門と斎藤孫左衛門を呼んで協力を求めた。二人は村人を集め、「松平家三百年の恩顧に報いるはこの時ぞ」という山川の言葉を伝えた。村人の意気は大いに揚がった。山川は重左衛門と孫左衛門に指示して、村内から笛・太鼓のすべてを集めさせた。 笛・太鼓は集まったものの、問題は誰を獅子舞の演者として選ぶかであった。山川の作戦は、彼岸獅子舞を先頭に敵前を通過して入場を敢行するという大胆不敵なものであり、作戦の失敗はすなわち演者の死を意味した。村老たちの協議の結果、隊長の高野茂吉以外は独身の若者だけで組織することになった。最年少者は、弓持の藤田与二郎十一歳であった。家族や村人と水杯を酌み交わしたのち、作戦が開始された。 二十六日未明、山川隊は小松彼岸獅子隊を先頭に縦列を作ってひそかに大川を渡渉し、飯寺西方に集結した。山川大蔵が前進を命じると、小松彼岸獅子隊が一斉に「通り囃子」の演奏を開始し、会津軍が篭城する会津若松城を目指した。彼岸獅子の演者をはじめ、全軍威風堂々の敵前行軍に、西軍は虚を衝かれ、所属部隊の誰何をすることもなく、ただただ山川隊の行軍を見送るばかりであったという。山川隊は、城門が近づくと一気に西大手門より入城を果たし、作戦は成功した。この時のメンバーも紹介される。
最年長30歳で、この方がリーダーだが、その方以外はすべて10代の方々だ。その年齢構成でみると、18歳1名、17歳1名、間を置いて、15歳が1名、14歳が3名、12歳が2名、そして、最年少がなんと11歳だ。
幸い戦後、無事帰村したそうではあるが、これらの人々も命がけだったということだ。
誇りにつながるのが、戦後の明治4(1871)年2月17日、容保・容大父子が帰若していた折、御薬園に招かれた獅子団10人が、御前で小松彼岸獅子の舞を披露し、容保公から直々にこの時の獅子団の勇気を称えてのお褒めの言葉を賜り、獅子の頬掛けと高張り提灯に会津葵御紋の使用を許されたことだとか。
資料として、「小松獅子舞考」(高久金市著/坂井正喜監修)が紹介される。
隊のイメージが固まったところで、小松村から昨日整理の郭内までの行進ラインを具体的に確認する。
小松を出発した一団は、楽手を先頭にして縦隊をつくり、秘かに阿賀川を渡り、全員が渡り終えると、大蔵は、飯寺の西で一団を勢揃いさせたらしい。その「秘かに阿賀川を渡り」が「上米塚の渡し」だと思う。位置的には、只見線の鉄橋附近。
現在は、その先に進んでいわゆる「高田橋」を渡るが、かつての会津西街道は、対岸の飯寺まで渡し船で渡っていたということのようだ。この渡し、会津藩士等は船賃が免除され、一般庶民からは徴収していたという。
その庶民にとっては、「阿賀川」の呼称に馴染みがなく、大概は「大川」で通じる。
その大川を「上米塚の渡し」で渡った後、ここで楽手を先頭に整列し、大蔵の「前進」の命令で、彼岸獅子の囃子が始まって、会津西街道を進む。
材木町、川原町橋周辺を占拠していた長州藩と大垣藩の脇を堂々と行進して、郭内に入ったということだろうか。ここから先は、昨日の整理。
昨日は、山川大蔵隊の入城ラインについて「本郷から大川を越えて飯寺村に入るいわゆる日光街道を河原町まで進んで、」と表現したが、「日光街道」は正しくは「下野街道(会津西街道)」ということらしいので修正する。
確認して初めて分かったのが、小松獅子は最近会津若松市に所属するようになったということ。自分の勝手なイメージでは、天寧寺獅子は東山、小松獅子は本郷だと思っていたら、小松獅子は、北会津村だったらしい。これが、町村合併で会津若松市北会津町になったという経緯らしい。これに伴って、大川の東が会津若松市という捉えも通用しなくなったか。
なお、大川を渡ったこの飯寺村では、会津藩の救援に駆け付けた越後長岡藩士43名が、新政府軍の重囲に陥り戦死していて、飯寺の本光寺にはその供養碑が残る。また、この村が大町札の辻から最初の一里塚の位置だったとも。
また、先に整理した戊辰戦争時、大河を渡る困難を整理したが、それもこの「上米塚の渡し」の風景の一つかな。