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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~第26話「八重、決戦のとき」⑤~八重入城門

 第26話「八重、決戦のとき」③で、散策を楽しみとする者として八重の入城門が気になっていることにふれた。この三の丸には、埋門・南門、そして不明口の3つの門がある。概ね埋門から三の丸入城をイメージするようだが、一部に南門からの入城をイメージするものをみたからだ。(不明口は不淨門とのことなので、ここからの入場はなさそう)

 その八重の入城にかかわって「会津の華は凛として【福島民友】」の「八重の大手口の戦い」に以下の紹介をみつけた。
 八重は慶応4(1868)年8月23日、生家の山本家から鶴ケ城内に入った。「会津戊辰戦争」に八重の次のような言葉が残る。
 追手門や西出丸の方面には無数の敵が居(を)りましたが、幸ひに東方面には余り見えませんでした、しかし、わたしのすぐ後から敵三名三の丸に忍び込んで捕(とら)へられ、訊問(じんもん)の結果、上方弁の為(ため)、間諜(かんちょう)と知れ、廊下橋の東で之(これ)を斬り暫(しばら)く其(その)首を晒(さらし)てありました。
 ここから、北出丸や西出丸へは入れずに、三ノ丸南門、二ノ丸南門、廊下橋を経て本丸に入ったとの推定をしているようだ。
  
 ここで紹介される「会津戊辰戦争」を確認するが、ここに八重の言葉は確認できていない。多分、この出典は、先にふれた撮影禁の福島県立図書館に展示される「鉄砲で戦った婦人の思い出 【婦人世界(明治42年11月)】」ではないかなと想像している。それで、国会図書館のデジタル版で確認できないか試みたか駄目だった。裕福なら「会津戊辰戦争史料集1991【新人物往来社(宮崎十三八編) 】」で確認できそうだが、今回はそこまでしないで、その孫引のままにする。

 「追手門や西出丸の方面には無数の敵が居(を)りました」の追手門が、西出丸の方面と重ねるその文意から、先に整理した「会津戊辰戦争」がいう「北大手門」である事が分かる。
 そちらには「無数の敵が居」たという状況は、割場の鐘が鳴って入城したという最近の米沢の情報と八重の屋敷の位置情報を考慮すれば、「会津戊辰戦争」の「北大手門の戦い」で、割場の鐘がなるとともに戦闘が激しくなったという描写とも重なり自然であり、八重が入城するやその「北大手門の戦い」に参加するという状況とも重なる。
 「北出丸や西出丸へは入れずに」という部分は、前日のふれで、婦女子の入場は、三ノ丸からの手はずになっていたという情報もあって曖昧さが残るが、三ノ丸南門からの入場の確からしさは高いように思う。

 「幸ひに東方面には余り見えませんでした」の後の描写「わたしのすぐ後から敵三名三の丸に忍び込んで捕(とら)へられ、訊問(じんもん)の結果、上方弁の為(ため)、間諜(かんちょう)と知れ、廊下橋の東で之(これ)を斬り暫(しばら)く其(その)首を晒(さらし)てありました」の部分だが、これが「天神橋の戦い」の名残と想像する。
 「会津戊辰戦争」には、「北大手門の戦い」の前に「天神橋の戦い」があって、その鎮静化の様子が描かれる。この天神橋の戦いの描写と重ねても辻褄が合いそうだとも思う。

 ここまで整理してきて気がついたのが、先に整理した間瀬氏・赤羽氏の入城は、この「北大手門の戦い」以前に速やかに行われていたことだ。というのは、その邸宅は、西郷邸の直ぐ北側の位置であり、西軍の陣となる位置だからだ。ということは、割場の半鐘が鳴るはるか以前の戦況判断で入城したということになる。スポットライトは浴びないが、すぐ隣の西郷邸の悲劇とは対照的に、必要品を荷車で運びいれたり、籠城中に出産したりするたくましさにつながる生きる気迫は、嫌いでない。
by shingen1948 | 2013-07-10 05:45 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)