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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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台畑(南矢野目)周辺を歩く⑫~富塚舘③

台畑(南矢野目)周辺を歩く⑫~富塚舘③_a0087378_7231093.jpg
 南矢野目の字台と丸子の字冨塚・字冨塚前は、地形的にはほぼ同程度の高度の平坦地で、ここが南矢野目字台と丸子字冨塚の大字界だ。路地道を挟んだ向こう側が、丸子字冨塚になる。
 「歴史地図」の「富塚館」は、道を挟んで台畑八幡側にプロットされるので、この写真では、大きな道筋の右手を「富塚館」としていることが想像できる。そのメモが「伊達の家臣冨塚中網?天文の乱1542~で戦死」。
散策していると、「屋敷の区画溝の遺構に青磁碗と白磁皿、それに茶色い瀬戸の陶器の大型壺と小型の千手観音の仏像の遺物が発掘された」という情報に、ついそちらに寄ってしまう。特に青磁碗という情報に近視眼的になってしまって、「富塚館」のイメージを重ねてしまうのだが、「ふくしまの歴史」がいうように一歩引いて「冨塚氏などに関係するものと注目されます」とか、「冨塚氏はその後復活しました」とかという見え方も大切かな。
 報告書で紹介される冨塚氏は以下の通り。
 冨塚氏は、古くは源姓、鎮守将軍陸奥守満政の孫隆祐が出雲目代として同国冨塚郷に住み、冨塚氏と称した。常陸(伊達)入道念西に仕え、伊達郡に下り代々伊達家宿老に列したとされる。晴宗采地下賜禄によると、信夫庄北郷冨塚新左衛門知行と記され、市史では冨塚氏が天文の乱前後、冨塚近隣を領したと解される。
 伊達氏の始祖とされる常陸(伊達)入道念西の時代から、有力な家臣として仕えてきた方ということのようだ。
 「晴宗采地下賜禄によると、信夫庄北郷冨塚新左衛門知行と記され、市史では冨塚氏が天文の乱前後、冨塚近隣を領したと解される。」という部分が、「ふくしまの歴史」がいう「天門の乱で稙宗方となったため乱後は、一族はほとんど領地を没収されました。冨塚村の大部分を領有したとみられる冨塚新左衛門の冨塚在家・青木在家・上丸子その他が没収されて、晴宗方だった大塚将監に与えられました」という情報と重なるのだろうと思う。
by shingen1948 | 2013-04-16 07:25 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)