信夫の里の狐達⑦~石ケ森と信夫山
2013年 02月 05日
半沢氏の歴史地図に、信夫山の熊野峠に関わる以下のメモがあり、本内の舘位置まで点線が引かれて「熊野道?」のメモ書きもある。(本内の舘には「アイヌ遺蹟のチャシか?」のメモ書きも。)
熊野峠信夫山のメジャーな信仰の山の見え方の一つは、鳥ケ崎を中心とした湯殿山・羽山、薬師峯・羽黒山あたりを三山とした見え方のようだが、熊野山(268.2m)を中心としたもう一つの見え方だと思う。
古代峯越の古道と伝え、鎌田半在家の熊野、石ケ森への直線コースにあたる。これは(丸子の)条理制遺構につながる。
ここが「石ケ森」であることから、もう一つ気になるのが信夫山の立石だが、半沢氏の歴史地図では、この立石は以下のように解説する。
立石の巨岩勝手な見方かもしれないが、カミ信仰の源流にある巨石信仰があってもいいはずで、信夫山の立石はその立石列石に見立てた見え方であってもよさそうにも思う。更に、この加茂左衛門を石窟に封じて崇拝する信仰する石ケ森稲荷の祭祀は、その信仰の延長線上に捉えてもいいのではないかなという勝手な思いも。
立石峯は巨岩が立林するのでこうよばれた。このやや北方下方、丸子三条院に倍々石・へのこ石という男根・女隠に似た二つの奇岩があって道祖神として信仰されてきたが、明治30年に松川護岸用として破壊された。(以下略すが、消失した巨岩が解説される)
そこに加茂左衛門稲荷大明神の言い伝えを重ねれば、霊験あらたかな加茂左エ門が御山の権坊に頼って修法したということで、信夫山の神聖さがさらに強調されて受け取られ、そのことで、こちらの神聖さに跳ね返るという関係性が読み取れる。
ということで、鎌田から見える信夫山。