地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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模擬原爆と福島⑦~模擬原爆着弾地付近の散歩から

 今回の模擬原爆着弾地付近の散歩と重なる地点は、東根堰にかかわる散歩と町頭遺跡の発掘調査現地説明会に出かけた後、春日舘―春日神社―十万却山へー弁天山へと続いた散歩だ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/8965150/
 観点を変えて歩けば、同じところでも違って見える。
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 それだけではない。先に歩いた時には見えなかった事が、あっそうだったのかと思える事がある。その一つが、今回の観点で歩いていて、懐かしく思って立ち寄った町頭遺跡だ。 
 ここは平安時代の集落遺跡だが、保育園の建設のために調査された事は知っていたこと。
 この時に、この辺りの様子について次のように表現している。
 この近くの春日神社辺りが、中心地だったのではないのかなと思えてきていた。少なくとも、東西に延びるこの高台の縁に沿っている道の山沿い側が、渡利地区の心のふるさとなのだろうと感じてきたところだったのだ。
 この山際が、渡利地区の中心地のひとつらしい事には気づいていたようだ。
 しかし、この「町頭遺跡」の「町頭」の「町」が中心地を表す言葉で、それが今回の模擬原爆着弾地を特定しようとした時に目印にした集落をいっていることに、初めて気がついた。その中心地の南端を「町頭」と表したのではないかな。
 半沢氏のフィールドワーク地図のメモで、今回の集落が、当時中心地としての「町」であることは知っていたのだが、このことと先の散歩が意識の中でつながってくる。

 ここで確認したかったのは、この地点に立てば、模擬原爆が福島市街地を外れて渡利の水田に着弾したのではないということ。模擬原爆が着弾したのは、渡利地区の歴史ある中心地の僅か数十m西側の地点ということだ。
 ここで、歴史に残るような大事件があったのかどうかは知らないが、平安の時代から連続的につつましい人々の生活が続いていたという事。山際のこれらの遺跡は、縄文時代の遺跡の上に築かれ、遺跡が重なりあっているらしいことを考えれば、そのとてつもない時間の連続性は、もっと古い時代から続いていたということであり、その集落の近くに着弾したということだ。

 さて、ここがその「町頭」なら、その北端に相当する「町尻」には、円福寺という寺があったらしいことは、今回何気なくマホロンの検索で遊んでいて知ったこと。奈良平安時代遺跡でかかるが、いつ廃寺になったかの情報はない。今度確認してみようとは思う。

 この「町頭遺跡」の事で整理しておきたいのは、もう一つある。それは、この遺跡の調査の後、保育園が町尻から町頭に移ってきた事。というのは、今回半沢氏のフィールドワーク地図のメモで、この集落が昔の中心地であることを知ったのだが、この地図では、この保育園が、その位置関係の目印の一つになっている。
 散歩人としては、重要な目標物の移動情報でもあるということ。
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by shingen1948 | 2012-11-05 05:20 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)